トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『Klara and the Sun / クララとお日さま』/ カズオ・イシグロ(土屋政雄・訳)

 コロナ禍で両親以外の人の口元(マスクをしていない顔)をほとんど見る機会がないということが幼い子どもの脳に与える影響について、さまざまな国で研究が行われている*1。保育園児の母としては、大きな不安と焦りを感じる毎日だ。マスクをつけていなければ当然わかるはずの表情を読み取る機会が十分に与えられないのだとしたら、どうしたらいいのだろう。そんな気持ちを抱えて読み始めたイシグロの新作では、語り手のクララが時折「ボックス」に分割される世界を、そこに存在する人間を、認識していた。

......while the box immediately beside it was almost entirely taken up by her eyes. The eye closest to us was much larger than the other, but both were filled with kindness and sadness. And yet a third box showed a part of her jaw and most of her mouth, and I detected there anger and frustration.

 

すぐ隣のボックスには店長さんの両目があります。ここは目だけでほぼいっぱいで、わたしたちに近いほうの目が反対側よりずっと大きくなっていますが、ともにやさしさと悲しさに満ちています。でも、三番目のボックスはどうでしょう。そこにあるのは店長さんの顎の一部と口の大部分で、そこからわたしが感じたのは怒りと失望でした。

Klara and the Sun (English Edition)

Klara and the Sun (English Edition)

 
クララとお日さま

クララとお日さま

 

 クララは人間ではない。AF(Artificial Friend)だ。授業もオンラインとなり、同年代とのコミュニケーションが極端に減った近未来の子どもたちの「親友」となるべく開発されたAIである。他人の表情や言動の変化を鋭く感知できる人がいる一方、鈍い人もいるように、AFの能力や個性もそれぞれ異なる。

 好奇心旺盛で観察力に優れたクララは、お店にやってきたジョジーという女の子に気に入られ、買われていく。クララの唯一の願いは「to be as kind and helpful an AF as possible(親切で役に立つAFになる)」こと。病弱なジョジーをつぶさに観察し、彼女の幸福の一助となれるよう全力を尽くす。

 まるで童話のような始まり方が印象的である。「国を体現するような執事」、「アーサー王伝説」など、イギリスらしいモチーフを用いるイシグロの作品だからこそ、優れたイギリスの児童文学がいくつも脳裏に浮かぶ。『ビロードのうさぎ』に、アーディゾーニの挿絵が美しい『まいごになったおにんぎょう』。人形やぬいぐるみを主人公に据えた物語は、特にイギリスの児童文学に多く見られる気がする。

 クララが「お店」で自分の親友となる子どもの来店を待ち望む冒頭の場面や、非生命体が主人公の物語としてはかなり珍しい一人称の物語であること、語り手が好奇心旺盛で賢いという点は、リチャード・ヘンリー・ホーンのThe Memoirs of a London Dollによく似ている。そういえば、描かれているのはあくまで「少女とそのお母さん」が中心で男性色が非常に薄いのだが、作者は男性(ホーンはフェアスター夫人という偽名を用いて執筆)という点も同じだ。

Memoirs of a London doll (English Edition)

Memoirs of a London doll (English Edition)

 

 しかし、人形とは本来「(主に)少女が大人になったふりをし、お世話をして遊ぶ」ことができるよう作られたおもちゃであり、クララは人形ではない。たとえばLondon dollは持ち主である少女のことを「Mum(お母さん)」と呼ぶが、クララにとってジョジーはあくまで「友だち」であり、自分のお世話をしてくれる存在ではない。人形とAFの存在意義はまったく違うのだ。AFが作られたのは、想像力を養うためでもなければ、子どもが大人になる練習をするためでもない。あくまでも、「今ここ」にある孤独感を解消することがクララの使命なのである。  

 クララは、まるで赤ちゃんが世界をよく見て吸収するように、周りで起こっていることを記憶し、分析していく。人間には地位が高い人とそうでない人がいること、子どもには「lifted(向上処置を受けた)」子とそうではない子がいること、一緒にいる人によってジョジーの態度が変化すること、人間は孤独を避けるためならなんだってするのだということ……。教えられたことを信じ、学んだことの点と点を無理矢理結びつけようとするから、クララの論理は飛躍する。AFが太陽光で作動することから「お日さま」を神様のように崇めたり、おまじないに用いたりもする。まさに子どもそのものだ。

 明らかにポスト・シンギュラリティの世界なのである。同じような設定でAIを描いたliterary fictionとしては、2019年に出版されたマキューアンの『恋するアダム』(日本語訳は2021年出版)や、アトウッドの「マッドアダム」三部作があげられる。

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 ただしマキューアンや、イシグロと同じく科学者を父に持つアトウッドが嬉々としてAIや彼らを取り巻くSF的環境を描写する(ように感じられる)一方、イシグロは『わたしを離さないで』でもそうだったように、必要最低限なことしか記さない。読者は、子どもたちが学校へ行かなくなった背景や環境問題、クララが「不気味の谷」を克服しているのかなど(家政婦が気味悪がっているのをみると、人間そのものという外見ではないのかな)、細かな手がかりを与えられることはなく、ひたすら読み進めることになる。 

 クララには意思がある。ラブラドール・レトリバーのように賢く陽気で従順なAFたちが多いようなのだが、クララは「これぞ」と見込んだジョジー以外には冷淡な態度をとるという、どこか柴犬のようなところがある。と思えば、ジョジーや母親を傷つけないよう忖度することもある。

 意思があるなら、感情はあるのか。それが読者に提示される問いの一つだ。ただし、クララのいる世界では、感情の重要性はずいぶん薄くなっている。ジョジーの母親の友人は自身のことを「Our generation still carry the old feelings(昔ながらの感情にとらわれる世代)」と揶揄するし、どうも「lifted(向上処置を受けた)」の子はそうではない子と比較して共感性が低いようだ。だからこそ、ジョジーや母親に対するクララの思いやりや真摯な気持ちが際立つ。

 感情があるなら、心はあるのか。クララは自分にも「feelings(感情)」はあると思うとしながらも、人の「heart(心)」について幾度となく言及する中で、自分については必ず「mind」を使う。「heart(心)」ではないのだ。でも、本当にそうなのだろうか。楽しかったこと、助けてもらったこと、抱きしめられたことを思い出すとき、それはただの記憶なのだろうか。「feel a pain alongside their happiness(幸せと同時に痛みを感じ)」はしなかったのだろうか。

 それを確かめたくて、なにか手がかりがあるのではないだろうかと思って、また読み返している。

 

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*1:個人的には、女性がニカブを身につけているサウジアラビアでの保育園などではどうしているのか、あの地域の子どもの発達には影響がないのかなども気になるのだが、それを調べ出したら本当に仕事する時間がなくなるので今はやめておこう……。