トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

火星小説が輝いた2023年(Sea Change、Girlfriend on Mars)

SF小説によく用いられるモチーフがいわゆるliterary fictionに繰り返し登場するようになると、テクノロジーが社会に浸透したことを感じる。

たとえば、AIが登場するイアン・マキューアンの『恋するアダム』が出版されたのは2019年、そしてカズオ・イシグロの『クララとお日さま』は2021年。あ、古市憲寿の『平成くん、さようなら』が2018年。

少なくとも出版される数年前から構想が練られていたと考えると、ちょうど機械学習や深層学習の研究が進み、世界がビッグデータに注目していた2010年代初頭には、ブッカー賞や芥川賞にノミネートされる類の作家が作品にAIを取り上げることを考えるほど、技術が定着・一般化していたのだといえるだろう。そして2022年にはChatGPTが鳴り物入りで登場している。

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そして2023年、おもしろいなあと感じたのがliterary fictionにおけるいささか唐突な「火星」の登場だった。たとえばこちらの2冊。

 

Sea Change / Gina Chung

韓国系アメリカ人作家によるデビュー作。表紙を見たらわかるとおり、タコが登場します。主人公のローは、ショッピングモールに併設された水族館で働く30代の女性。長年付き合っている恋人がいたけれど、彼は火星に向かうミッションに志願し、合格してしまったので破局した。おまけにいつも一緒に行動していた親友は結婚することになり、なかなか会えない。

ローの心をなぐさめてくれるのは、水族館にいるドロレスという巨大なタコ。だが水族館が経営不振に陥り、ドロレスはとあるお金持ちに買い取られることになる。ローはドロレスとの別れを惜しむ。実はドロレスは、海洋学者だったローの父親がこの水族館に連れてきたタコだった。海で行方不明となった父親の面影を今でも探し続けるローは、自分が抱える喪失感と向き合わざるを得なくなる。

 

Girlfriend on Mars / Deborah Willis

2023年のギラー賞にもノミネートされていた作品。主人公は30代のカナダ人男性、ケヴィン。サンダーベイ出身だが高校のときから付き合っているアンバーと一緒にバンクーバーに引っ越し、定職に就かずにマリファナを育てては売る生活を送っている。作家になるという夢を持っていたが、もう何年も何も書いていない。高校のときに一目惚れしたアンバーとの付き合いも長くなり、ふたりの間にときめきはもはやない。

そんなある日、アンバーが突然「リアリティショーに出演することになった」と言い出す。出演者の中からふたりが、火星への片道切符(帰還するための技術は存在せず、出発したふたりはその後もずっと火星で暮らすことになる)を手にするというリアリティ番組だ。

ケヴィンは戸惑い、呆れ、現実を受け入れられないまま、アンバーが出演する番組を毎週視聴するようになるのだが……。

 

初恋の終わりを告げる火星

この2作品、作風は全然違うのだけれど、どちらも恋人、それも初恋の相手ともいえる大事な人が火星移住計画に参加することになり、それがきっかけで早くに死に別れた父または母について考えるようになる、という筋書き。喪失や別れ、心の距離を表すために火星が用いられているのが興味深かった。

奇しくも同じ2023年に『イーロン・マスク』が出版されたし、StarShipの開発も進んでいるようだし、日常生活に唐突に火星が登場するタイプの小説は、これからますます増えるかもしれない。

ちなみに『Girlfriend on Mars』にはいかにもマスク風の大富豪がスポンサーとして登場するし、マスクの名前もちらっと出てくる。

 

2冊を比較すると

どちらも読み応えがあったのだけれど、『Sea Change』が典型的なcoming of age小説の枠を出ないように感じられる一方で、『Girlfriend on Mars』はリアリティショーやSNSの危険性を提唱しつつ、現代の30代が抱える焦燥感をていねいに描写していて、わたしはこちらの方が好き。

ぶっ飛んでいるようで、実はていねいに「カナダ文学」の伝統を踏襲しているところもいい。たとえばアトウッドがカナダ文学の特徴として挙げる「怪物と化した自然」は厳しい冬でも巨大な動物でもなく、火星なのだけれど。「ヘカテのような老婆」の役回りはPichuというインド系カナダ人女性が担っているといえるかな。

(この先はネタバレ注意)

ケヴィンはなんだかヘタレなのだが、大好物がバンクーバーの日本食専門店で購入するスルメ!というところも含めて、作者の巧みな人物造形が光る。そしてケヴィンが「グレート・アメリカン・ノベル」ならぬ「グレート・カナディアン・ノベル」を書くのだ俺は!と決心して机に向かうようになる流れは、このありえない設定の結構笑える小説において、なかなかどうして感動的だった。