[An Artist of the Floating World]
ハヤカワepi文庫の『浮世の画家』を購入するのは、なんとこれで三度目。今年に入ってカバーデザインが変わっていた。前の(表紙に浮世絵が描かれている)デザインはタイトルがタイトルなだけに、浮世絵師の話だと勘違いされそうだと思っていたので、こちらの方が好ましい。この橋は作中に出てくる「ためらい橋」をイメージしているのでしょうね。
主人公の小野は戦前、著名な画家のもとで修行をしていたのだが、戦争色が濃くなっていく世の中で、いわゆるプロパガンダ絵画の制作を始める。
歓楽街や芸妓にあたる柔らかな光をキャンバス上でどう表現するか、というのを最大のテーマとしていた小野の師匠はこれをなじるのだが、小野は「浮世」を描くのはもうたくさんだといわんばかりに彼のもとを去る。そして戦争中には日本国民を鼓舞するような絵を描き続け名声を博するのだった。
しかし第二次世界大戦後、国民の意見は180度変わる。戦争を率いた政治家や軍人は戦犯として処刑され、戦争を煽るような曲を作った作曲家が良心の呵責に耐えきれず自殺する。
自分のしたことを後悔してはいないと言い切る小野だが、娘の結婚話は暗礁に乗り上げ、かつての弟子には会ってもらえない……。
というのが大まかなあらすじだけれど、もちろん戦後の小野の目を通してしか状況が語られることはない。小野のストーリーテリングはまるで、書いた後に誰かに読まれることを意識して書かれた日記のようなもので、自分で納得のいくエピソードを自分の視点からしか語らないので、当然読者は何度も首をひねることになる。
本当にこういうことがあったのか? 小野と他の登場人物との意見の食い違いは、一体どちらが正しいのか?
イシグロ作品全ての底流に流れる「一人の人間」としてのストーリーテリング、いわゆる信頼できない語り手の語りがこの作品(イシグロ二作目)でもう確立されていることが分かる。
今回改めて読み返してみると、集団心理の恐ろしさがまざまざと伝わってくる。
「平山の坊や」と呼ばれる精神障害者のエピソードなどがそうだ。戦前から戦中にかけて周りに軍歌や愛国的演説を教えられ、歓楽街の名物となっていたのに、戦争が終わると目障りだと疎んじられ、いじめられるようになる。
平山の坊やを叩きのめす気になった現在の人々は、なにに取りつかれたのだろう。平山の坊やの軍歌や演説が気に食わないのかもしれないが、おそらく彼らはかつて平山の坊やの頭をさすって彼をそそのかし、二、三の短い歌詞が彼の大脳に根づくのを助けた張本人なのだ。
時代の流れが180度変わり、周りに取り残された人々。
なんとなく、ソーシャルメディアが生んだ異常なネットいじめや、何か事件やスキャンダルが会った際に正義感を増長させた人が必要以上に加害者や渦中の人を「叩く」様子が思い出される。
このように目まぐるしく変化する世界で、どうすれば自分の意見を保ち、自分の信念に従って生きることができるのだろうか。
そういう主たるテーマとはまた別に、1940年代の日本における家族のあり方も美しく描写されている。
そしてそれと同時に、小津安二郎や成瀬巳喜男といった私が敬愛する1950年代の日本映画のような、穏やかな家族ドラマを描いてみたいという思いもありました。
とイシグロ自身が語るように*1、まるで日本映画のような父と娘、祖父と孫の会話が心に残る。お見合いを巡るすったもんだは、どこか『細雪』を彷彿とさせるところもある。
それはきっと、飛田茂雄さんの訳が巧みだからでもあるだろう。
イシグロの作品は多数の翻訳者さんが訳しているが、どの方も本当に素晴らしい。
特にこの作品は、海外文学を普段読まない知人にもおすすめしたいと思ったほど日本語が美しく、ただただ長崎を舞台に描かれた家族小説といった趣がある。
冒頭に読むのは「三度目」と書いたのだけれど、初めて文庫の『浮世の画家』を買ったのは原書(英語)と読み比べたくて、だった。
断捨離アンらしく読了後は知人に譲ったものの、Buried Giant(『忘れられた巨人』)までの全てのイシグロ著作を読んだ後にもう一度読み返したくなって再購入。
読了後は家族に譲った。そしてドラマ化決定のニュースを聞いて読みたくなって再三購入……というわけである。
自分でも、一体何してんねん!とツッコミたくなるような行動だが、いいのいいの。最初はいまいち魅力が分からなかったこの作品、何度も読み、しみじみと味わうことができたのだから。
さすがに今回こそは、私の本棚にステイ決定である。
それではみなさま、今夜もhappy reading!