トーキョーブックガール

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Distancia de rescate / サマンタ・シュウェブリン

我が子が1歳半くらいになったとき、真夜中にふと目が覚めた。すぐにわかった。とうとうやってきたのだ、「あれ」が。ひたひたと全身を満たすように増幅していく恐怖は、どこか懐かしいものでもあった。やがてくると知っていたから。

いわゆる想像力の暴走だ。急にエレベーターや自宅のドアが勢いよくバタンと閉まって子どもが挟まれてしまったら、数秒目を離したすきに横断歩道に飛び出してしまい車に轢かれたら、工事中のビルから何かがわたしの数メートル先を歩く子どもの上に落ちてきたら。そういう妄想が止まらなくなる。わたしの場合、恐怖に襲われるのはなぜだか真夜中だけで、朝には気にならなくなっている。

これはすべて、「distancia de rescate」、つまり「rescue distance」、「助けることができる距離」、「救える距離*1」に関連する恐怖である。自分が育てている、あるいは世話をしている生き物や人が、「自分が助けることのできる距離」を出ていったときに起きうる危険を想像してしまうのだ。

アルゼンチン人作家、サマンタ・シュウェブリンの1作目の長編小説『Distancia de rescate』は、その「距離」をテーマにした小説である。

物語は唐突に始まる。

Son como gusanos.

¿Qué tipo de gusanos?

Como gusanos, en todas partes.

El chico es el que habla, me dice las palabras al oído. Yo soy la que pregunta. 

状況がまったく不明なまま、続けられる会話。話しているのは主人公「わたし」と、Davidという男の子だ。Davidは「わたし」の記憶に潜む、「gusano(長い虫、ただしミミズではないとDavidは明言)」のような何かを探しているのだという。それが何かはわからないまま、「わたし」はDavidに請われ、過去を振り返る。

娘のNinaとふたりで別荘にやってきた「わたし」は美しい隣人、Carlaと知り合う。Davidの母親だ。Carlaは、息子に関して秘密があるのだと話す。彼について真実を打ち明けたら、「わたし」は離れていってしまうだろうとも。それは「救える距離」を見誤ったからこそ起こった、あらゆる母親の悪夢のような不思議な物語だった。

Lo llamo "distancia de rescate", así llamo yo a la distancia variable que me separa de mi hija y me paso la mitad del día calculándola, aunque siempre arriesgo más de lo que debería.

そして恐怖はこの話を聞いた「わたし」にも伝染し、「わたし」とNinaの間の「救える距離」はどんどん縮まっていく。

La distancia de rescate está ahora tan tensa que no creo que pueda separarme más de unos pocos metros de mi hija. La casa, los alrededores, todo el pueblo me parece un lugar inseguro y no hay ninguna razón para correr riesgos.

シュウェブリンらしい、どこかからりと乾いているからこそ余計冷たく感じる恐怖をじっくり味わえる優れた作品。それにしてもこの作家は動物と子どもの描き方というか、距離のとり方がうまく、凄みがある。

Netflixで『悪夢は苛む』というタイトルで映像化されていたことに気づき、ずっと積んでいた本書を慌てて読みました。映画もよかった……監督は『悲しみのミルク』や『Aloft』のクラウディア・リョサ(マリオ・バルガス・リョサの姪でもある)。映画だと、NinaやDavidがあどけなさすぎて可愛すぎて心臓を鷲掴みにされてしまい、恐怖が倍増どころの騒ぎじゃなかった。

https://www.netflix.com/jp/title/80233703

英訳(Megan McDowell訳)も『Fever Dream』というタイトルで出版されている。2017年国際ブッカー賞候補作(ショートリスト)。

自分が恐怖に苛まれていたからなのか(今はもうそうでもない)、一昨年&去年はやたらとmotherhood dystopiaが気になった。そして何を読んでいても、「distancia de rescate」に関する描写が目についた。たとえばマギー・オファーレルの『ハムネット』。

彼女は、すべての母親がやることだが、釣り糸を投げるように常に子どもたちに思いを向け、子どもたちがどこにいるか、何をしているか、どんな具合か確かめている。習慣から、そうして暖炉のそばにすわりながら、彼女の心の一部は子どもたちを一覧にして所在を確かめている。

(小竹由美子訳)

ジョーン・ディディオンの『さよなら、私のクィンターナ』も。

 クィンターナに恵まれてからは、私は心配でないことが一度もなくなった。

 私はプールを、高圧線を、洗面台の下に置いてある配管詰まり洗浄用の苛性アルカリを、薬品戸棚の中のアスピリンを、「ブロークンマン」を恐れた。私はガラガラ蛇を、衝潮(リップタイド)を、地崩れを、ドアに現れる見知らぬ男を、原因不明の発熱を、オペレーターのいないエレヴェーターを、ホテルの人影の見えぬ通路を恐れた。恐れの源ははっきりしていた。娘に危害が及ぶかもしれないからだ。

灰島かりの『絵本を深く読む』でも。

さらに赤ん坊は、別の意味でも恐怖をあおる存在です。赤ん坊はむきだしの命ですが、それを身近に感じることは、死を身近に感じることでもあります。わたし自身も、赤ん坊を育てているあいだに、それまで知らなかった恐怖にとらわれることがありました。自動車を見れば車輪につぶされた血まみれの赤ん坊の死体が目に浮かんできたし、ブランコを見ればふり落とされて割れた頭が見えるような気がしたこともありました。命を世話することは、その命が終わるものであること、つまり死を意識することなのです。

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『七つのからっぽな家』については(なぜか)こちらの記事で。

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*1:Netflix字幕より