トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』ミア・カンキマキ(末延弘子・訳): 推しとの歳の差、1006歳

[Asioita jotka saavat sydämen lyömään nopeammin]

どうしたらいいかわからないこと。

三十八歳にもなって実家の二階にある自分の部屋に移ること。

六十三歳になる父に、部屋を引き渡すために七時間かけてすみずみまで一人で掃除をさせること。

しまいには父と手まねで喧嘩すること。

 フィンランド人の「私」(著者)の10年来の推しは、900年代の京都に生きた清少納言。『枕草子』の英訳を大学で読んで、夢中になったのだ。なんとなく人生が行き詰まっているような、飽き飽きしているような気持ちを抱えていた「私」は思い切って長期休暇制度を利用し、京都で暮らすことにする。清少納言は何を見て、何を感じて生きていたのか、知るために。

 本書はそんな「私」の1年、東日本大震災などさまざまな予想外の出来事にも見舞われ、結局京都以外にも色々なところを訪れることになった1年を、日記のようにまとめた作品だ。これがめっぽう面白い。たまたま通りがかった祇園の南座で11代目市川海老蔵の『義経千本桜』を観劇し、「ものすごくイケメン」と夢中になった挙句リサーチ能力を駆使して歌舞伎について調べ上げたり、さまざまな国出身のシェアハウスの住民と少しずつ打ち解けたり、男について・女について考えたりという日々の記録が、清少納言に負けるとも劣らないウィットに富んだ語り口で綴られている。

 京都での生活を通じて、「私」と清少納言の距離はどんどん近づいていく。それだけではない。「私」とともに泣いたり笑ったりしているうちに、「私」と読者であるわたしの距離も、国籍や人種や言語や文化を超えて、どんどん近づいていく(例: わたしも、カンキマキさんと一緒で、ファラフェルガーデンの中庭が大好きだよ!!)。なーんだ、あなたとわたしは同じことを考えてた! 時代が変わっても、状況は異なっていても、同じことを感じてた! 『枕草子』(の現代語訳であれ英訳であれ)を読んでそう思う人が多いように、『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』もまた書き手と読者を強い絆で結んでくれる。

そういう日に、セイ、あなたと二人でいるのは、気持ちがほっこりする。あなたのように時間にいつも余裕のある友人がいると知っていると、心があたたかくなる。雨の日の時間がどんなに長くても、地球の反対側の時間が何時であっても。

 

読書リレー

 本書で「私」は清少納言の研究を進めるうちに、紫式部やヴァージニア・ウルフといった女性作家についても調べるようになる。その経験を通して、さらに清少納言への理解を深めていく。以下は、本書を読む前後で読み、関連性について色々考えた本たち。

 特にウルフについては「そうよ。セイ、あなたにはお金(紙)があり、自分ひとりの部屋(中宮定子のサロン)があった」として、『自分ひとりの部屋』について考え、ウルフがアーサー・ウェイリーと懇意だったことから(ウルフの著書や日記に『枕草子』に関する記述はないものの)、『枕草子』の話を聞いたことはなかったのかなどと考えを巡らせるようになる。

 ウェイリーが『枕草子』を翻訳し、出版したころ、ウルフは『波』を執筆していたのだという。絶対にウルフは清少納言が好きなはず! なぜ言及されていないのだと疑問に思った「私」はウェイリーの訳を辿るうち、重大な事実を知る。

 昨年新訳が出版された『波』。保育園がコロナで何度も&何週間も休園となり、「体力オバケ」の我が子と付き合いながら隙間時間にむさぼるように読んだ本。表紙を見ただけで、色々な思い出(ショッピングモールのフードコートに連れていき、「自分で! 自分で!(食べるからママは手出ししないで)」と言われて1時間もかけておうどんを食べる我が子を待っている間に読んだこととか)が走馬灯のように蘇るわ……。

 そしてその考えは翻訳手法、翻訳の過程で失われるものの有無などにおよぶ。「私」は英訳でしか『枕草子』を読んでいないが、現代の日本人のほとんども現代語訳でしか『枕草子』を読んでいないのだ。

 ちなみに著者は『枕草子』の引用を英訳からフィンランド語に翻訳しているため、訳者の末延弘子さんはフィンランド語のものをそのまま日本語に訳したとのこと(あとがきより)。これがとても素敵。

うれしいもの

読んでいない物語をたくさん見つけたとき。気に入った一巻めの物語の二巻めを手に入れたとき。たいていは期待外れでがっかりするけれど。

誰かが破り捨てた手紙。それを拾い集めてつなぎ合わせられることに気づいたとき。

陸奥紙、白くて装飾された紙、ただの紙でもきれいで白いのを手に入れたとき、わたしはとてもうれしい。

 橋本治の『桃尻語訳』の同じ箇所はこんな感じ。翻訳に関する記述では桃尻語訳らしきものも言及されていて、久しぶりに読み返してみると、なんだかちょっと時代の移り変わりを感じた。

嬉しいものーー。

・まだ読んでない物語の一巻目を読んで、「メッチャクチャ先知りたい!」とだけ思ってたのの残りが見つかったの。(それで、ガクーッとくるようなのもあるんだけどね)

・人が破り捨てた手紙を継ぎ合わせて読んでて、一まとまりのとこをずーっと何行も読み続けられたの。

・陸奥紙(普通の紙でも上質なの)が、手に入ったの。

 

 ずーっとずーっと読んでいたい、お気に入りの1冊となりました。ミア・カンキマキさんの2作目は英語にも翻訳されていて、昨年よくSNSで見かけた。こちらも(できれば末延弘子さんの訳で)翻訳されないかなあ。楽しみに待つこととしましょう。