英語訳のタイトルがとてもいい。"I spy with my little eyes..."のLittle Eyes。
そしておそらく、"big brother"をも意識しているのだろうと思われる。『一九八四年』でジョージ・オーウェルが描いた監視社会を、シュウェブリンも描こうとしているから。しかしそれはずっとパーソナルな、ピアツーピアの、ともすれば『一九八四年』よりよほどアナログな世界だ。
本作はサマンタ・シュウェブリンが2019年に出版した小説Kentukisの英語訳で、国際ブッカー賞にもノミネートされた。ちなみにシュウェブリン作品の英語訳(どれもMegan McDowellによるもの)は、次々と国際ブッカーにノミネートされており、これで3度目。すごいです。
The New York Timesの100 Notable Books of 2020にも選出されている。
このブログは「読んでよかった」と思った本だけを紹介することを目的としていて、ランキングを作ったり「今年のベスト」を選んだりすることはあえてしていないのだが、それでもやっぱり「ベスト・オブ・20xx」と思える本は出てくるものである。Little Eyesは「ベスト・オブ・2020年の奇妙奇天烈translated literature」であろうか。
ちなみに「ベスト・オブ・2019年の新刊」はバンコクという都市へのラブレターともいえるBangkok Wakes to Rain、「2019年を代表する小説」だと思ったのはGirl, Woman, Otherだった。
あらすじ
Little Eyesはメリーゴーラウンド方式の群像劇で、さまざまな都市が舞台となっている。リマ(ペルー)、オアハカ(メキシコ)、アンティグア(グアテマラ)など、アルゼンチン出身のシュウェブリンらしく中南米が目立つが、バンクーバー、北京、ウンベルティデ、ザクレブ(クロアチア)なども。京都もほんのちょっぴり登場する。
2020年、2021年が舞台になっているといっても差し支えない、これらの都市で一つだけ実際の現代社会と異なる点、それは「kentuki」という「ぬいぐるみ」が大流行していること。Kentukiはただのぬいぐるみではない。登場人物の言葉を借りると、
It's a cell phone with legs(歩くスマホ)
である。Kentukiの内部にはOSがセットされていて、ぬいぐるみの目の部分にはカメラが備え付けられており、誰かが遠隔で操作している。
技術的には大したことはなく、結構原始的で、シュウェブリン自身も
It was an old concept with technology that also sounded old.
と書いているくらいだ。
Kentukiを購入して家に持ち帰り、立ち上げるとセントラルサーバーに接続される。そして「kentukiを操作する側」と1対1の接続が確立される。この接続は自動的に行われ、どこの誰と接続するかを選ぶことはできない。Kentukiを通じて、世界のどこかの誰かと、「見る(kentukiの中の人、住む人="dweller"。スペイン語の原書まだ途中までしか読んでないけど、"ser un kentuki"かな。おお、この翻訳……!ってなります)」「見られる(kentukiを所有する人="keeper"。スペイン語では"amo de/tener un kentuki")」の関係を築く。
KentukiというぬいぐるみはまるでiPhoneやiPadのようなシックな箱に詰められ、販売されている。価格は$270。見た目はパンダ、うさぎ、ドラゴン、カラスなど多種多様だけれど、機能はすべて一緒。
Kentukiの「中の人」となるためのソフトウェアは$70である。なので、作中ではっきりとは示されないけれど、kentukiを購入する人の方がなんとなく経済的に余裕があり、ソフトウェアを購入する人は一人暮らしの老人だったり、子どもだったりする。
The GuardianやThe New Yorkerのレビューを読んでいると"dweller"の意思で動かすことができるkentukiは「ファービー」に例えられることが多いのだけれど、どちらかというと「たまごっち」に近い気がする(The New York Timesはファービーとたまごっちのあいのこみたいな書き方をしていて、ふむふむそうよねと思った)。
接続相手は選べない、接続してから何が起こるかはお楽しみ。どんなに手をかけて育てても、自分好みじゃないモンスターみたいになっちゃったりする「たまごっち」のようである。だからといって「はい、他の子と交換」なんてことはできなくて、その「たまごっち」が死ぬまで次の「たまごっち」を育てられないところとか、そっくりなのだ。
シュウェブリンの真骨頂
それで、シュウェブリンらしいのがこのkentukiを通して人間のうちに秘めたる残忍さ、負の感情、恐れなんかを巧みに描き出しているところ。
Kentukiを通して人間は、「見る方」と「見られる方」に分けられることになる。そうすると、まず浮上するのが「あなたには見られる価値があるのか」という問いかけ。たとえば老人ホームによって購入されたkentukiの"dweller"(中の人)はまったく刺激のない場所に存在することになったという事実に絶望して、kentukiの自殺を図っちゃったりする。
不思議な匿名性に安心して、とんでもない姿をkentukiの向こう側の人に見せちゃう人も出てくる。
現代社会でのインターネットとの付き合い方として問題となっている、たとえば
・YouTubeやInstagramの投稿からの個人情報特定
・アイドルの誹謗中傷をインターネットで行い、逮捕された人が一見幸せな生活を営んでいる平凡なサラリーマンだったり専業主婦だったり
・SNSで実生活とはかけ離れた理想の自分を演じる
・児童ポルノや虐待
・アニマルウェルフェア*1
・転売、合法か違法かわからないグレーゾーンのビジネス
なんかを彷彿とさせるエピソードがこれでもかというほど登場し、この奇妙なお話を通して、今わたしたちが暮らしている世界に対する問いが投げかけられる。
特にオアハカを舞台としたエピソードは、シュウェブリンのこれまでの作品にも見られる気持ち悪さ全開で、背筋が寒くなる。最後の一行で、ふと我に帰り、「あれ、わたしは一体どうなのよ」と考え込んでしまう。
こちらが好きな人におすすめ
村田沙耶香さんの作品全般
村田沙耶香さんの作品が好きな人は、シュウェブリン絶対好きだと思います。決して似ているというわけではないのだけれど、描く悪意の種類が近いというか、物の見方が近いというか、そんな気がする。
『西への出口』モーシン・ハミッド
本作に限っていうと、コンセプトは『西への出口』に近い。いきなり全然違う境遇の人とつながってしまうグローバリズムをSFのような題材を用いて描き出す。
原書、その他のシュウェブリン作品など
原書(スペイン語)はこちら。
シュウェブリンの短編集のレビューはこちら。
こちらも日本語訳が出ています。
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やっぱりシュウェブリンはいい〜と心から思った。デビュー作Distancia de Rescateは未読なので、今年中に読みたい。
ではみなさま、2021年もhappy reading!
*1:Kentukiの権利が主張され始めたり、"free kentukis"というムーブメントが発生したりする。