トーキョーブックガール

海外文学・世界文学や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『あまりにも真昼の恋愛』 キム・グミ

[너무 한낮 의 연애]

『キム・ジヨン』を読んだ時に、次に読みたいなと考えていた小説。結局、購入してから1年近く積んでしまった。

この晶文社の「韓国文学のオクリモノ」シリーズって、装丁がとても素敵ですね。

CUONの装丁もどれも素敵だし、現代韓国文学は見た目もおしゃれで普段海外文学を読まない人も思わず手に取ってしまう作りになっていると思う。

訳もどれもナチュラルで、もちろん翻訳者のみなさまの腕が素晴らしいというのもあるけれど、想像以上に韓国と日本の考え方や書き方には近しいものがあるのかなと想像する。 

あまりにも真昼の恋愛 (韓国文学のオクリモノ)

あまりにも真昼の恋愛 (韓国文学のオクリモノ)

 

おそらくその近しさあまりに、さらさらと読めてしまってよく分からなかったというのが最初の感想。その後、数回読み直してしまった。

2016年に韓国で若者の支持を受けたのは一体どういうところなのだろう? というのがどうしても知りたくて。

噛みしめるように読んでみて感じたのは、韓国はやっぱり「近いようで実は遠い」国なのかなということ。日本とは比べ物にならないほどの競争社会で、凄まじいほどの学歴(大学進学率は驚異の80%台らしい)や美貌重視というプレッシャーに晒され、ネットの闇に苛まれるソウルでは、周りと同じ「道・レールから逸れる」のはどれほどの勇気がいることだろう。

そんな中でキム・グミが描く人々は誰一人としてマジョリティに理想とされる人生など歩んでいない。いわゆる「負け犬」ばかりなのかもしれない。

現代社会のありかたに「このままで本当にいいの?」と疑問を抱く若者たちの不安で曖昧な気持ちを代弁するようなところがあるのだろう。

 

表題作「あまりにも真昼の恋愛」の主人公ピリョンは営業課長から平社員に降格され、お昼を会社で過ごすことが辛くなり、遠くのマクドナルドに通うようになる。学生の頃によく来たマクドナルドだ。そんなある日、窓から向かいの劇場で行われている演劇の垂れ幕が目に入る。

「木は"ククク"と笑わない」ーーそれは、学生時代にピリョンのことを好きだといった後輩・ヤンヒが書いていた劇の名前だった。

一見主導権を握っているように思えるピリョンと、受動的だと感じられるヤンヒ。それでも物語を読み進めると、それは反対なのだと分かる。

自分を信じ、好きな人のことを好きだと宣言し、夢を仕事にしたヤンヒ。他の人にどう思われるか、微塵も気にしている様子はない。

降格を気にして、異動の前に古い名刺を大量に刷っておいた方がいいのではないか(子供のPTAで渡すために)と考えてしまうピリョン。あまりにも社会にがんじがらめになったピリョンの涙が心に染み入る。

 

「趙衆均氏の世界」では、大学院を卒業し出版社で試用期間を過ごしている「私」の前に二人の「常識から外れた人」が現れる。

一人はヘランという年下の女性で、その面白いアルバイト歴を買われて試用期間を過ごしている。つまり、私のライバルだ。

ヨンジュさんはちゃんとしたキャリアを積んでここに入ってきたわけだから、言ってみればパック詰めされた肉なんだよ。生産されたときからきちんと管理されて、パックされた肉だね。でもヘランさんは、チュモッコギみたいな感じさ。首まわりの小間切れ肉をてきとう(チュモックグ)にかき集めてみたらそこそこ売れる物になった、というわけ。

もう一人がタイトルにもなっている趙衆均氏で、40歳を超えているのに役職もなく空気扱いされている社員。ひとりぼっちの変わり者で、どうやら詩を書いているらしい。

ある日「私」とヘランが任された仕事の校正を趙衆均氏が行うことになるのだが、一向に終わる気配はなく……。

 

「セシリア」はうってかわって、村上春樹を連想させるような比喩から始まる短編。

大学生の頃仲間内でバカにされていた女の子セシリアは有名なインスタレーション作家となって活動しているらしい。セシリアは同窓会には来なかったのだが、彼女のその後が気になった主人公はセシリアを訪ねて仁川へ行く。

いわゆる「大人」になっていく同級生たちの中で相容れない気持ちを感じていた主人公は、なぜセシリアに会いたいと思ったのだろうか?

仲間たちとは連絡を絶って自分の世界を突き進んでいく彼女を確かめたかったから? 

 

「肉」や「犬を待つこと」のような家父長制の崩壊を感じさせる短編もあり、変わりゆく社会がありありと目の前に立ち上がってくるようだった。