(ウィズ・ザ・ビートルズ)
子供の頃から翻訳小説を読むのが好きだった。
ちょっとした言い回しや文章に、翻訳される前のその国の言葉が透けて見える気がして、その独特の「感じ」にいつもわくわくした。
今でもよく覚えているのは、スペイン語から日本語に翻訳された本で、
これは私の気に入った。
という文章が出てきたこと。
スペイン語の動詞"gustar"は、主語が「私」ではなく「気に入ったもの」なので、「私の気に入る」という表現がぴったりだし、日本語ではもちろん「私は気に入った」が普通の使い方だから普通ではないとは感じるのだけれど、それでいて違和感はない。
だって「私」の「気」に「入る」*1んだもの、おかしくはない。
これが意図して使用されたものなのか、古い本だったので出版当時はその表現が普通だったのかは分からないものの(多分前者だとは思うけれど)、その時の衝撃はちょっと忘れられない。
こういう風にもとの言語を表現できるんだ! という味わい深い感動を覚えた。
村上春樹は、別の意味で翻訳が衝撃的だった作家だ。
私が初めて村上春樹を読んだのは10代の頃で、海外に住んでいて日本語の本がなかなか手に入らなかったこともあり、英語で読んだのだった。
確かThe Wind-Up Bird Chronicleを読んで、そのあとThe Elephant Vanishesを読んで、続いてNorwegian Woodを読んだと思う。
とても分厚いWind-Up Birdを開き、パスタを茹でているところに女性から電話がかかってきて、不思議な世界に巻き込まれていく中、「翻訳」作品を読んでいる気がしないことにびっくりした。
これは翻訳者のジェイ・ルービンの才能もさることながら、村上春樹がまず英語で書いて、それを日本語に訳して、というふうなやりかたで創作活動を(少なくとも初期は)していたということも当時は知らなかったから、純粋に「英語で書かれた小説だとしか思えない」「今まで読んでいた日本語英訳の小説とは違って、日本語を英語で訳した文章を読んでいる気が全然しない」のが、世界に突然極彩色になったくらい新鮮に思えた。
そんなことを思い出したのは、久しぶりに村上春樹の作品をまず英語で読む機会があったから。
February 17 & 24, 2020のThe New YorkerのFictionに掲載されていた村上春樹の"With the Beatles"。
個人的にここ最近のThe New Yorkerのフィクションの中では、ダントツのお気に入りとなった。
これはもともと文藝春秋の『文學界』2019年8月号に「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」として掲載されていたもの。
なのだけれど、未読だった(ちなみに英語を読んだ後に、実家から取り寄せて日本語の方も読んだ)。
The New Yorkerに掲載されているフィクションの大半と同様、英語で書かれたかのようなリズムがあって、神戸で過ごした青春時代を振り返るという設定は『ノルウェイの森』のようでもある。
ぷつぷつと話が突然切断されて他の話が始まる様は、カート・ヴォネガットの影響が色濃く感じられて『1973年のピンボール』のようでもある。
そんな、ちょっと懐かしい村上春樹節だ。
老齢といわれる年代になった主人公が、失われた青春時代に見かけて目を奪われた女の子のことを思い出し、彼女が抱えていたビートルズのアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」を思い出し、その後付き合うことになった別の女の子を思い出す、という物語で、とはいえストーリーの中心となるのは女の子ではなく彼女の兄と主人公との会話である。
たまたま彼女の家で顔を合わせた兄は、記憶に障害があるため大学に入学できず、毎日家で過ごしている。主人公が時間を持て余しているのを見た彼は、主人公が現代国語の教科書を持っているのを見て「読んでいた部分を音読してほしい」と頼む。主人公が読んでいたのは、芥川龍之介の『歯車』。
芥川が自殺する直前に書いていた、まるで悪夢のような小説である。
主人公は芥川自身と推測され、レエン・コオトを着た幽霊が何度も登場し、その後交通事故で義兄が亡くなったことが語られる。復讐の神や火事、もぐらといった不気味なモチーフをいたるところに見出すようになった主人公は次第に追いつめられていく。
この小説の最終章、
誰か僕の眠っているうちにそっと締め殺してくれるものはないか?
で締めくくられる物語を、主人公は彼女の兄に向かって朗読することになる。
大人になってから主人公は彼女の兄と再会するのだが……。
ビートルズの曲で彩られた青春に、『歯車』が軋む陰鬱な音が忍びよってくるような、なんとも言えない味わいのある物語だった。
でもこの象徴的なモチーフに、何の象徴も感じないでほしい、ただ物語を楽しんでほしいというのが、国語の問題に対する疑問を提起する村上春樹のメッセージでもある。
国語の教科書というものを無性に読みたくなってしまった。
英語で読んでから原文を読んで、すごくびっくりしたことがある。
それは、彼女の兄の言葉がすべて関西弁だったこと。
英語では、最後に
“Excuse me,” he said. He had an unmistakable Kansai intonation.
とある以外は、関西弁を感じさせるものはなかったし、関西の話であっても関西弁を使うことのほとんどない村上春樹だから、とても意外に感じられた。
「まあ、せっかくここまで足を運んで来たんやから、あと三十分だけ待ってたらどうや」とお兄さんは言った。「あと三十分してまだ帰ってこなかったら、そのときは引き上げたらいいやろ」
この関西弁、完全なる関西弁というわけでもなくて、イントネーションで感じさせる関西弁というか、「ほのかにまぶしてある」感じ。
でもその分、兄の存在がくっきりと際立ち、ある種の生命力が立ち上がってくる(なんか『孤独のグルメ』みたいな文章になっちゃったぞ)。
その後、大人になっても関西に住み続ける兄と、東京へ引っ越した主人公の異なる生き方をも表している。
これから、同じく『文學界』に収録されていた「ヤクルト・スワローズ詩集」を読みます。楽しみ!
*1:ググってみると、同じことをブログに書いていらっしゃる方を発見。ちなみにこの言い回しは、朝吹登水子さんのサガンの翻訳でもよく見かけた。http://shiatsumat.hatenablog.com/entry/20120927/p1