トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『密やかな結晶』小川洋子

(The Memory Police)

 今年は日本文学の「当たり年」だと主張する、英語圏の記事やInstagram/Twitter投稿を多く見かけた2020年初頭。あまり話題にならなかった(らしい)2019年とは打って変わって、今年は初めて英語に翻訳される日本人作家の作品も多く、とりわけ女性作家が注目を浴びている。

 特に、『みみずくは黄昏に飛びたつ』において、川上未映子が村上春樹の作品における女性の描かれ方についてずばりと質問をしたことはよく知られているため*1、彼女の作品『夏物語』は待ちに待ったという雰囲気が感じられる(訂正。『夏物語』でした! そして"Ms Ice Sandwich"は2017年にもう英語に翻訳されていましたね)。

Breasts and Eggs

Breasts and Eggs

  • 作者:Kawakami, Mieko
  • 発売日: 2020/05/12
  • メディア: ハードカバー
 

 そのほかにも、『コンビニ人間』で人気を博した村田沙耶香の『地球星人』や、2018年に『献灯使』が全米図書賞翻訳部門を受賞した多和田葉子の『百年の散歩』はいくつもの2020年のTo Be Readリスト入りを果たしている。

Earthlings: A Novel (English Edition)

Earthlings: A Novel (English Edition)

  • 作者:Murata, Sayka
  • 発売日: 2020/10/06
  • メディア: Kindle版
 
Three Streets

Three Streets

  • 作者:Tawada, Yoko
  • 発売日: 2021/06/01
  • メディア: ハードカバー
 

 松田青子の『おばちゃんたちのいるところ』も同様だ。 

Where The Wild Ladies Are

Where The Wild Ladies Are

  • 作者:Matsuda, Aoko
  • 発売日: 2020/02/13
  • メディア: ペーパーバック
 

 そして、小川洋子の『密やかな秘密』の英訳、The Memory Policeは2020年国際ブッカー賞のショートリストにもノミネートされた。読んだことがなかったので早速手に取った。

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The Memory Police: A Novel

The Memory Police: A Novel

  • 作者:Ogawa, Yoko
  • 発売日: 2019/08/06
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 まずは日本語で! 小川洋子の手から紡ぎ出される日本語は、それはそれは美しい。句読点の位置まで惚れ惚れしてしまう。個人的に「ノートに書き写したい」作家第一位だと思っている。

密やかな結晶 (講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)

  • 作者:小川 洋子
  • 発売日: 1999/08/10
  • メディア: 文庫
 

 『密やかな結晶』は1994年に発表された作品。文庫では「わたし」の母が作った彫刻のようなものが表紙になっているのだけれど、 ハードカバーにはなんともいえない素朴なハトが描かれていて、いかにも舞台となっている島にありそうな、全体的にセピア調の味わい深いノートのようなたたずまい(Amazonで表紙をチェックできる)。

 両親を亡くし、一人暮らしを営む小説家「わたし」の島では、人々は「心の中のものを順番に一つずつ、なくしていかなければ」ならない。何かが消滅したとき、朝目覚めると、いつもと違うことに人々は気づく。ベッドから抜け出て、何が消え去ったのか確かめるのだ。それは小鳥だったり、薔薇の花だったり、さまざまなのだが、時折「決して忘れることができない」人も存在している。島の秘密警察は記憶狩りと称して、そうした人々を連行するようになっていた。記憶を失うことのなかった「わたし」の母親も、連行され処刑される。

 「わたし」はある日、自分の小説を担当している編集者R氏が記憶を失わない人間だと知り、厳しくなる一方の記憶狩りから逃れるために自分の家に身を隠してはと提案する。

 

 発売から25年を経て、世界情勢からディストピア小説が人気を集める中、この作品もまたディストピア小説や政治的小説の一つとして読まれているものの、執筆当時にそのような意図はなかったと作家自身は語っている(下記参照)。

www.nippon.com

  あくまでも「書くこと」のきっかけとなった『アンネの日記』のオマージュだとも。確かに、読んでいてまず感じるのは『アンネ』とのつながりだ。R氏が「わたし」の家に逃げてくる日は大雨が降り、アンネが暮らしていたような隠し部屋で彼は生活することとなる。秘密警察に踏み込まれたときの緊迫感、同じように記憶を失わない人間を隠していた近隣の人が捕まる様子など、ホロコーストを思わせる描写が続く。

 だがその一方で、小川洋子が『博士の愛した数式』などでも描いた「記憶」を失うことの辛さ、切なさが心に残る。覚えていたいのに覚えていられない自分に対する、不甲斐なくやるせない気持ち。博士の嗚咽が世界中の読者の胸を打ったように、「わたし」の覚える恐怖や絶望は特に印象深い。同じく記憶にむきあう小説家といえば、まずカズオ・イシグロが頭に浮かぶが、彼が記憶の不確かさや現実との乖離を描く一方で、小川洋子は大切なことを忘れてしまう恐ろしさや悲しみに重点を置いているように思う。

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

 

 ふと、若年性アルツハイマーを患った大学教授の物語、『アリスのままで』も読み返したくなった。 

 そして『密やかな結晶』で小説が世界から消えたときに誰かが叫ぶ、

物語の記憶は、誰にも消せないわ 

 という言葉は、イサベル・アジェンデが『エバルーナ』(だったはず)に書いた

日付も名前も忘れても、いいお話は忘れない。 

 を思い起こさせ、物語を愛する人の胸に宿る、決して消えない情熱を感じさせる。

 

 新型コロナウイルスの影響で、国際ブッカー賞の受賞作品発表は予定されていた5月から夏へと延期に。受賞作品はもう決まっているのかな!?

 この作品が、「閉じ込められた生活」、「政府や権力への不信感」、「大切なものを失う悲しみ」など、現在の世界情勢に妙にぴったりと合ったテーマを取り扱っているだけに、受賞するのではないかと考えているのだけれど。とにかく、ブッカー賞の公式Twitterが呟いていた通り、more time for us readers to catch up with the nominated booksと思って、他の受賞作品もしっかり読んでみたい。

 みなさまも、happy reading!

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