[ÉSZAKRÓL HEGY, DÉLRŐL TÓ, NYUGATRÓL UTAK, KELETRŐL FOLYÓ]
現代ハンガリーを代表する作家の一人だというラースローの作品を初めて読んだ。初めて読む作家なのに、ちょっと変わり種に手を出してしまったかな〜というのが最初の感想。本作は、著者が京都に半年滞在していた時にその風景や文化に影響を受け書いたという、京都を舞台にした作品なのだ。
- 作者: クラスナホルカイラースロー,Krasznahorkai L´aszl´o,早稲田みか
- 出版社/メーカー: 松籟社
- 発売日: 2006/03
- メディア: 単行本
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2018年のブッカー国際賞ショート・リストにノミネートされていたラースロー。
ラースローというと、どこまでも続くような長い文章とユニークな語彙が特徴らしい。それはこの作品でも十分に感じられた。
物語は突然、2章から始まる。ページを抜かしたかと思って確認するも、2章しかない。ここで突然
列車は線路の上ではなく一本の鋭い刃の上を走っていた。不吉な都市交通体系がはらむ恒常的狂気と恐怖にうち震える町、それは京阪電車での到着を意味していた。
と、ジャジャーン! とばかりに京阪電車が現れる。1ページまるまる続くような長い文章で語られるのは著者が肌で感じた京都そのもの。自動販売機で手に入る「味噌スープ」だったり、誰も乗っていない空の電車に向かって礼儀正しく一礼する駅長だったり、宮大工の仕事ぶりだったり。
主人公は1000年の時を経て現代の京都に舞い降りた「源氏の孫君」で、人間というよりは京都のエッセンス・空気を形にしたようなものだと思われる。のだが、その割には登場した時からご気分がすぐれず口に白いハンカチを当てては吐き気をこらえたり、かと思えばどうしても水が一杯飲みたくてお寺の奥へ押し入ったりと、どうも人間くさいところがあるのが面白い。この源氏の孫君が、ある時「名寺百選」で見かけてどうしても訪れたくなったという幻の寺(存在しない)を探し求めてひたすら歩き回るというのが主なストーリーラインだ。
その他には駅長・駅員や、時空を超えて源氏の孫君を探しにきた者たちがぼんやりとした形で描かれるだけで、町に人間の姿は見当たらない。がらんとしている。生活音が聞こえてこない。ひたすら京都の描写が続く。著者は「人間が出てこない小説を書きたかった」そうで、それにはこの町がうってつけだったそう。
京阪電車で到着した町で、ぐるぐると色々な場所を巡って、最後には冒頭の場面に戻っていくというのがメビウスの輪のようだった。
そういえば去年は一度も京都に行かなかった。もう少し暖かくなったら行こうかなあ。
この写真は、『北は山』にも登場した東福寺の苔を撮ったもの。東福寺が大好きなので、本書での突然の登場に嬉しくなったのだった。
それでは皆様、今週もhappy reading!