明日は母の日。いろいろな母と娘の形に思いを馳せて、大好きな「母と娘」文学をいくつか挙げてみました。もちろん母と娘文学は山のようにあるので、今本棚に入っている本(=絶対に手放すもんかと思ってる本)限定で!
- 母の視点
- 娘の視点
- 『ダーク・マテリアルズI 黄金の羅針盤』フィリップ・プルマン(大久保寛訳)
- 『戻ってきた娘』ドナテッラ・ディ・ピエトラントニオ(関口英子訳)
- 『未亡人の一年』ジョン・アーヴィング(都甲幸治・中川千帆訳)
- 『ここではないどこかへ』モナ・シンプソン(斎藤英治訳)
- 『掃除婦のための手引書(悲しみの殿堂、ママ)』ルシア・ベルリン(岸本佐知子訳)
- 『オレンジだけが果物じゃない』ジャネット・ウィンターソン(岸本佐知子訳)
- 『セルフ・ヘルプ(母親と対話する方法[覚え書き])』ローリー・ムーア(干刈あがた・斎藤英治訳)
- 『ビラヴド』トニ・モリスン(吉田廸子訳)
- 『夜フクロウとドッグフィッシュ』 ホリー・ゴールドバーグ・スローン、メグ・ウォリッツァー(三辺律子訳)
- 『クレイジー・リッチ・アジアンズ』ケビン・クワン(山縣みどり訳)
- 両方の視点
母の視点
『パウラ、水泡なすもろき命』イサベル・アジェンデ(管啓次郎訳)
あまりにうつくしく哀しい、イサベル・アジェンデの最高傑作(だと心から感じるし、本人もそう述べている)。
代表作『精霊たちの家』は『百年の孤独』の模倣だと言われることも多いように思うが、この作品を読めばわかる。『精霊たちの家』は、アジェンデ家の歴史そのものなのだと。『精霊たちの家』も『百年の孤独』も、ラテンアメリカに脈々と受け継がれてきた物語の形式に基づいた作品であり、デジタル化された現代の日本でも妖怪たちが息づいているように、人間とともに存在してきた不可思議な現象やうつくしくも残酷な動物や植物がありのままに描かれているのだと。
アジェンデの娘、パウラは28歳の若さでポルフィリン症を発症し、昏睡状態に陥る。意識のない娘への語りかけをまとめたものが、この作品である。娘が目を覚まし、たとえば記憶をなくしていたとしても決して混乱することのないようにと、アジェンデは家族の歴史を手紙に綴る。19世紀にスペインを離れチリにわたる船乗りから始まる一族の物語。一文字一文字に娘への愛情がずっしりと込められ、今まで愛した男性や物語を書くことに向けた情熱がほとばしる。
『あなたの人生の物語(あなたの人生の物語)』テッド・チャン(公手成幸訳)
妊娠中に何度も読み返した母と娘の物語。
もう思いっきりネタバレしてるのでこれから読む人はこれ読まないで〜〜〜
「失ってしまうことがわかっていても、あなたはその人生を選びますか?」という究極の問いが込められた作品。 誰かを愛して、家庭を築き上げ、何よりも愛しい娘が生まれる。そのすべてを失い1人ぼっちになることがわかっていても、同じことを繰り返しますか? その勇気が、あなたにはありますか?
通訳・翻訳の妙、言語と思考のつながりを再認識できるヘプタポッドとのやりとりも頭がしびれるようなおもしろさ。そして、"Story of Your Life"というタイトルの意味も考えさせられる。あなたとは誰なのか? これはルイーズの"story of my life(運命)"であるとともに、娘の「人生のすべて」でもあるのだ。
『ジュリエット』アリス・マンロー(小竹由美子訳)
女性の人生と、転換点となった出来事を、マンローらしい少しクールではっとする程美しい描写で綴る短編集。オンタリオやブリティッシュ・コロンビアの田舎町で育つ女たち。母に、娘に、友人に、夫に抱く軽い失望や分かり合えない苦しさ。その哀しみや怒りがとてもリアルで、友人の話を聞いているような気分になる。「チャンス」「すぐに」「沈黙」三部作が特にすばらしい。
アルモドバルが『ジュリエッタ』として映画化している。ドラマ『イサベル』*1の主演を務め、「スペインの堀北真希」と(わたしに)呼ばれたミシェル・ジェネールが出ています。
次はルシア・ベルリンの『掃除婦』を映像化するようですね。初めての英語での映画撮影になるとか。これも楽しみ。アルモドバルが好んで読んでる海外文学についても、どこかでまた書きたい。
『緋文字』ホーソーン(小川高義訳)
イギリスから移住してきたピューリタンがつくった町、ボストン。この保守的な町で、緋色地に金糸で縫い付けた「A」というモチーフを胸につけている若き女性へスターが主人公。A=Adultery(姦通罪)を犯したことにより、町民に蔑まれている。相手は誰だったのか、夫はどうなったのか、というのを小説の中で徐々に明らかにしつつ、へスターとその娘がピューリタニズムではなく独自の信仰を持ち強く生きていくという物語。
このような閉鎖的な社会が女性を追い詰めるというのは何も昔のアメリカに限ったことではなく、同じことをしても女性だけが責められる状況は今でも根強く存在する(最近は変わりつつあるというか、なんかおかしなくらい男女ともに不倫疑惑のある人物を追い詰める傾向にあるが、ほんの何年か前まで芸能人の不倫とは、男性の場合「芸の肥やし」といなされ、女性の場合は一生罪を背負って生きていかないといけない状態に追いやられがちだったのが本当に解せなかった)。
その証拠に、『緋文字』は何度も何度も小説や映画のインスピレーション源として蘇っている。フォークナーの『死の床に横たわりて』、セシリア・アハーンのFlawed(感想は下のリンクから)、エマ・ストーン主演の『小悪魔はなぜモテる?!』(これもよかった〜)、ヒラリー・ジョーダンのWhen She Wokeなどなど。
『娘について』キム・へジン(古川綾子訳)
性的マイノリティで、しかも自分の利益はそっちのけで他者の幸福のために体力もお金も差し出す娘。母である「私」は歯痒くてしかたない。娘の恋人である「あの子」を見れば、「料理も掃除も上手なのに、なぜ結婚しないのだろうか」と考える。自分は「善い人」であるよう努力してきたのに、なぜこんな仕打ちを受けるのだろうか、と。
私生活でみせる頑なな姿勢とは裏腹に、仕事(介護施設)での語り手は揺れている。とある老女のことを理解しようと努力し、その孤独に寄り添う。機械のように老人を世話することに疑問を覚え、処遇の改悪は断固拒否する。
相反する感情。娘のことになると、「人並みの幸せ」という言葉が頭を離れない。それは彼女の幸せを本当に願っているからなのか、それとも世間体を気にしているからなのか。それすらわからなくなってくる。
娘の視点
『ダーク・マテリアルズI 黄金の羅針盤』フィリップ・プルマン(大久保寛訳)
*以前は「ライラの冒険」シリーズとなっていました。より英語のシリーズ名(His Dark Materials)に近いシリーズ名がついて新発売。
『波』で、新たに発売される旨を読んで、「えっ! どういうこと!?」とかなり混乱した。こんな名作が、まさか絶版になってたの!!!??? もったいなさすぎる!
ファンタジー大好きっ子で、『ナルニア国物語』や『ゲド戦記』、『はてしない物語』で育ってきたわたし。この作品を読んだとき、「ああ、もうファンタジーは二度と読まないかもしれない」とすら思った。これがファンタジー小説のてっぺんだ、これ以上の作品に出会うことはもうないだろうと感じたのだ。
ちょっとネタバレになるからあまり書かない方がいいかな……これは、壮大な母と娘の物語でもある。映画化もされたが、とある事情で興行成績が振るわず(出来が悪いというわけでは決してない、原作ファンとしても、原作から飛び出してきたようなキャストに魅了された)、シリーズ1作目で制作は打ち切りに……。
このシリーズとフィリップ・プルマンについては、別途書きたい。
『戻ってきた娘』ドナテッラ・ディ・ピエトラントニオ(関口英子訳)
恵まれた生活を送っていたのに、突然会ったこともない母親のもとに戻され、何人もの兄妹らとともに狭い家に詰め込まれ、貧しい生活を強いられることになった13歳の「わたし」。捨てられたのだというショックから、血の繋がった母親のことも、育ててくれた母親のこともお母さんと呼ぶことのできなくなった「わたし」の目に映るものについて読んでいると、社会のひずみの犠牲になるのは子どもたちなのだというやるせない思いが強くなる。
少女の気持ちを鮮やかに描き出す見事な筆致もさることながら、2ページ目で翻訳に「あ〜っ!!!!」と驚き、夢中になって読み耽った作品。また別途感想を書きます。
『未亡人の一年』ジョン・アーヴィング(都甲幸治・中川千帆訳)
ジョン・アーヴィングの長編は全部読んでいるくらい好き。ただし、この作品がとにかく好きすぎて、これ以降は「どうしよう、『未亡人』を超える物語をアーヴィングが執筆してしまったら……」とびくびくしながら新刊を読んでいる笑。
読みどころはたくさんあるし、色々なテーマやモチーフが散りばめられていて、一粒で何度でも美味しいのだが、アーヴィングにしては珍しい女性の主人公ルースが、幼い頃失踪した母マリアンの謎を追うという母と娘の物語だ。母マリアンは息子2人を亡くしており、その死をいつまでも悼んでいる。悲しみのあまりルースを愛することができない(ように描かれる)。そして、息子を彷彿とさせる23歳も年下の少年エディとの浮気がきっかけで、ルースを置いて家を出ていってしまう。
様々な人の立場から綴られる、愛と再生の物語。この母と娘の関係は……ネタバレになっちゃうけれど、大島弓子の『綿の国星』の強烈なエピソードを思い起こさせる。自分が産んだ子ねこを食べちゃった母ねこのお話である(何巻だったか忘れた)。どうして食べてしまったのか。マリアンには、その理由がわかるに違いない。
『ここではないどこかへ』モナ・シンプソン(斎藤英治訳)
Appleのスティーブ・ジョブスは生まれてすぐに里子に出された。相手がシリア系移民であることを理由に結婚を反対された母親が、育てられないと判断したからだ。その後、紆余曲折があって父親と母親は関係を再構築し、娘が生まれるが、今度は父親が2人を置いて出ていってしまう。これはその娘、つまりジョブスの妹が執筆した物語で、かなり自伝に近いようだ。
夢が叶う魔法のような場所、カリフォルニアで暮らすことを夢見てロードトリップを続ける母と娘。他力本願で幸せになろうとするあまり、少しずつ自分に都合のいいことしか見えなくなっていく母、アデル。大好きな母を離れて、大学へ、そして自立への道を進んでいく娘、アン。離れてこそ見えてくる愛情や真実もあるだろう。なんとも切ない時の経過が映し出される。
映画もよかった。スーザン・サランドンとナタリー・ポートマン、原作のイメージそのまま。
『掃除婦のための手引書(悲しみの殿堂、ママ)』ルシア・ベルリン(岸本佐知子訳)
世界中でベストセラーとなった短編集。
アラスカで生まれ、父の仕事でアメリカを転々としながら育ち、スラムにあるような家で暮らしていたかと思うと、チリにわたり突然裕福な生活を体験する。かと思うと結婚して息子をもうけ、離婚してシングルマザーとなり、今度はさまざまな職業を転々としながら子どもたちを育てる。自身の体験に基づいて書かれたという短編は、その人生のドラマチックな紆余曲折ゆえに、驚くほど多様性に富んでいる。だが、作品全体を通じて、決して変わらないものもある。ベルリンのユーモアあふれる語り口と、キョーレツな母親の存在だ。
「ウザっ」と言わんばかりに孫たちを押しのけ、ことあるごとに自殺を試みるものの、首吊りだけは「コツ(ハング)がわからない」と繰り返す母親。この「イカれてて冷たかった」母親の死後、姉妹は「あんな嫌なことをされた」「こんな嫌な目にあった」と悪口大会に夢中になる。ところが、この本を読んでいるとよくわかる。この母親こそが、偉大な作家ルシア・ベルリンを作り上げたのだと。
わたしたちはあなたのジョークや物の見方、何ひとつ見逃さないあの目のことをよく思い出す。それをわたしたちはあなたから受け継いだ。見ることを。
『オレンジだけが果物じゃない』ジャネット・ウィンターソン(岸本佐知子訳)
これは10年くらい前、とある雑誌の特集で読むべき本に挙げられていたのです。もちろんもう手元にはないそのページのレイアウトまではっきりと思い出せるのは、誰かによる紹介文がとにかく鮮やかで、どれもこれも面白そうだったから。それで購入して読んだのが、この作品と、次の『セルフ・ヘルプ』、そして佐野洋子の『シズコさん』。今でもどれか1冊のタイトルを目にすると、自然と3冊すべてのタイトルがするりと頭の中に浮かぶから不思議。
ウィットに富み、ときにほろ苦いウィンターソンのデビュー作。自身の生い立ちやキリスト教への考え方の変化、やがて訪れる初恋とアイデンティティについて。若い女の子がもがき苦しみながら自分の信じるものを確立していくお話。
『セルフ・ヘルプ(母親と対話する方法[覚え書き])』ローリー・ムーア(干刈あがた・斎藤英治訳)
この短い短編は、1982年から始まる。語り手は、もうこの世を去った母親について考えているのだ。時はどんどんさかのぼる。母親がアルツハイマー(多分)を患い、一緒に住むようになる。若かりし語り手の一人暮らしの日々。大学生に戻り、ティーンエイジャーに戻り、小学生に戻り、最後には赤ちゃんに戻っていく。
赤ちゃんのやわらかい肌や手や、ミルクのにおいの薄い髪が思い浮かぶ幸せな最後の描写。そして、冒頭の1982年に戻ってみると、その意味がもっとよくわかる気がして、どうしようもなく泣けてくる。
『ビラヴド』トニ・モリスン(吉田廸子訳)
アフリカの古い物語や呪いや伝説や、アメリカという新しい大陸の奇妙さ、恐ろしさがすべて一緒になって、セサという人物の物語ができあがる。奴隷制は沢山の人の人生を狂わせる。幼き娘を殺めてしまったという忌まわしい過去を持つセサのもとに、ある日突然若い女性「ビラヴド」が現れる。「ビラヴド(愛されし者)」とは、殺してしまった幼い娘の墓碑に刻まれた言葉でもあった。あまりにも辛い経験を重ね、それでもすべてを受け入れて生きていくセサの強さが心に残る。ビラヴドはすべての人の悲しみ、怒り。
『夜フクロウとドッグフィッシュ』 ホリー・ゴールドバーグ・スローン、メグ・ウォリッツァー(三辺律子訳)
ゲイのシングルファザーに育てられたエイヴリーとベット。エイヴリーはニューヨーク在住の本の虫、ベットはカリフォルニア在住のスポーツ大好きっ子と、普通だったら友だちになることなんてないタイプ。ところが、エイヴリーのパパとベットのお父さんが恋に落ち、お付き合いすることに! 自分たちが中国に旅行している間、娘たちをサマーキャンプに行かせることにした2人の父。仲良くなってもらいたいという彼らの願いは叶うのか?
という、現代版『ふたりのロッテ』のようなシングルファザー家庭のお話だけれど、実は「母」も登場。この大人の女性と少女たちの交流がとてもすてきで、「こんなお母さんいたらいいなあ」、「こんなお母さんになりたいなあ」と思います。
『クレイジー・リッチ・アジアンズ』ケビン・クワン(山縣みどり訳)
どちらかというと「主人公のレイチェル x ボーイフレンドの母」のバトルに注目してしまいがちな本作品、実母との絆が何度もレイチェルを救っているところがすごくすてき。故郷を遠く離れて、たった1人きりで、仕事の種類も問わず働きに働いてレイチェルを育て上げたお母さん。はるかなシンガポールまで迎えにきてくれる、やさしいお母さん。母の愛は偉大。
そして映画『クレイジー・リッチ!』は、『ジョイ・ラック・クラブ』以来25年ぶりに、アジア系キャストのみで制作された映画となった。そのため、原作にはない『ジョイ・ラック・クラブ』へのオマージュととれるシーンが、映画の最後の方に含まれている。『ジョイ・ラック・クラブ』以降の25年で、たとえば同じ中国からの移民1世&2世でも、母娘関係はこんなにも変わった。
*『ジョイ・ラック・クラブ』もこのリスト(下)に含んでいます。
両方の視点
『モッキンバードの娘たち』ショーン・ステュアート(鈴木潤訳)
亡くなったママは魔法使いのようなひとだったーー。
ママの言い方を借りて「瓶底の一滴まで煎じつめれば」、これはわたしが母親になるまでの物語だ。
という文章で始まる、「娘であることから娘をもつ母親になるまでの」物語。母亡きあと、これでようやくおかしな呪術や奇想天外なできごとから解放されるとホッとしている娘トニのもとに、母にとりついて不思議な力を与えていた〈乗り手〉が現れる。魔術や不可思議な現象のおもしろさもさることながら、母になんか似たくない、母の「遺産」を受け継ぎたくないと必死に抵抗するトニはすべての娘の象徴であり、わりきれない母と娘の関係性について考えさせられる。トニと妹のキャンディの会話も楽しい。
『わたしの名前はルーシー・バートン』エリザベス・ストラウト(小川高義訳)
ニューヨークで暮らすルーシー・バートンは盲腸で入院中。大したことはないはずだったのに、やれ検査だ、やれ異常値が出たと、どんどん入院が長引いてしまう。
そんな時、「飛行機になんて乗ったこともない」はずの母親が突然病室に現れ、2人は別離の期間を埋めるようにぽつぽつと会話を始める。家族と疎遠になっていたルーシーにとって、母との会話は自分のルーツを思い出す作業でもある。そして、母が何を考えていたのかを知り、自分が何を考えていたのかを伝える作業でもある。もちろん、人間が完全に理解しあえることはないだろう。それでも、話す時間を持つことは意味があるのだ。
そして、母となったルーシーと娘の会話からは、前の世代とはまた異なる関係性が生まれていることが示される。
『娘たちの空返事』モラティン(佐竹謙一訳)
モラティンによる戯曲。1806年に初めて上演されて大好評を博したこの作品、今読んでも全然古びていないしおもしろい。『高慢と偏見』での母娘のやりとりとか、『源氏物語』の夢浮橋が好きな方は、きっとこちらもお好きだと思う。
たったの一晩の間に起こったできごと。貧しさから抜け出したいと願う母親のドニャ・イレーネは、若き娘フランシスカを59歳の裕福な紳士と結婚させようと企む。ところが実は、フランシスカにはすでに恋人がいるのである。知らぬは両親ばかり。それでも、娘は母にさからうことなく、言いつけどおりに結婚を勧めようとするのだが……。「娘のために」と母親が行うことは、本当に娘のためなのか? 親による子どもの自由意志の剥奪は、とんでもない結果を招くのではないか? 200年前の物語だけれど、参考になるし考えさせられる。
Girl, Woman, Other / バーナーディン・エヴァリスト
Girl, Woman, Other: WINNER OF THE BOOKER PRIZE 2019
- 作者:Evaristo, Bernardine
- 発売日: 2020/03/05
- メディア: ペーパーバック
2019年ブッカー賞受賞作。さまざまな年代とバックグラウンドの、英国人の(主に)黒人女性12人の視点から語られる物語。心の傷や誰にも言えない秘密を抱えている彼女たちと、友人や娘や母や祖母の目に映る彼女たちは、全然違う生き物でもある。
物語の軸となっているのは「母と娘」のエピソードだ。どの章も母と娘を中心に構成されている。関係はそれぞれ異なる。「親の心子知らず」もあれば、娘に対して複雑な嫉妬心があるのかと思わせる母親もいる。早くに母を亡くした人物(数名)は「お母さん、今の私を見てほしかった」、「夫や子どもたちを見てほしかった」と心の中で繰り返し、母という他の何者にも変えがたい存在の偉大さを実感する。
そしてエピローグも……素晴らしかった!
『遠い山なみの光』カズオ・イシグロ(小野寺健訳)
デビュー長編。イシグロの生まれた戦後の長崎と、何十年後かのイギリスを舞台に、主人公の悦子が自身の人生を思い返す物語。佐知子と万里子、景子とニキ。女性の人生や自立について登場人物が会話を交わす。皆が皆、自身の行動を肯定して相手の言うことはほとんど聞いていないという会話にならない会話が多く、読んでいると不安な気持ちにさせられる。最後のケーブルカーのくだりで、まったく違う世界が見えてくるのが圧巻で、強烈なイシグロらしさを感じる。
『ジョイ・ラック・クラブ』エィミ・タン(小沢瑞穂訳)
麻雀には4つの席があり、それぞれの方角には意味がある。 この作品に登場する4人の中国移民女性にも、それぞれ歴史があり、家族がある。 新しい地・アメリカで彼女たちの娘が育つと、移民1世と2世のあいだには当然衝突が発生する。 迷信ばかり信じて、起こってもいない出来事の心配をし、娘についてあることないこと自慢したがるくせに、愛情を示してくれない(と娘たちの目には映る)母親たち。すっかりアメリカナイズされてしまい、白人のボーイフレンドと出かけ、英語ばかり話し、期待に応えてくれず、中国の文化を理解しようとしない(と母たちの目には映る)娘たち。
読者に明らかにされる母の過去や娘の葛藤は、彼女たちの間では簡単に共有できるものではない。ぶつかり合い、ときには憎しみを抱きながらも、決して絶えることのないつながりを全員が感じている様が心に残る。
*1:狂女王フアナの母。この作品もうめちゃくちゃ面白かった!!!