トーキョーブックガール

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『ヴェネツィアに死す』トーマス・マン: 美しいものを見ることには価値がある

[Der Tod in Venedig]

 「美しいものを見つめることは、魂に作用する」と言ったのはミケランジェロ。

 「美しいものを見ることには価値がある」と言ったのは上田久美子先生(宝塚歌劇団)。

 『ヴェネツィアに死す』(もしくは『ヴェニスに死す』)というタイトルを聞いただけで、思い浮かぶ言葉だ。 

ヴェネツィアに死す (光文社古典新訳文庫)

ヴェネツィアに死す (光文社古典新訳文庫)

 

 主人公はグスタフ・フォン・アッシェンバッハ。ミュンヘンに住む老作家。名声を得て、周りから尊敬されている男性である。彼を形作るものは「理性」と「若い時からの自制心」、「堅苦しく冷静な几帳面さ」。好きな言葉は「堅忍不抜」。若い頃から自分を律して生きてきた。

彼は、少なくとも世界を回る交通の利便を好きに使える資金を得てからは、旅行というものを、気が進まなくても時々はしなければならない衛生上の対策くらいに見なしていた……[略]……ヨーロッパを離れようなどとは思ってみたこともなかった。

 そんな彼が五月の初め、ふと旅に出たいという強い欲求にかられる。自分の体力的、精神的な衰えを感じ、旅行することで何かが変わるのではないかと期待したからだ。そして月末にやっと重い腰を上げ、イタリアへと旅立つ。

 アッシェンバッハが目的地に選んだのは水の都、ヴェネツィア。シロッコが吹いて高潮が起こると広場が水没してしまう都市。仮面・仮装カーニヴァルで知られた街……というのが行く末を暗示しているようで、不穏な雰囲気を醸し出す。おまけに船に乗り合わせた陽気な若者たちを見ていると、おかしなことに気づく。

明るい黄色の流行最先端のサマースーツを着用し、赤いネクタイを締め、大胆に反り返ったパナマ帽をかぶり、甲高い声をはり上げて、陽気さという点で他の誰よりも目立つ男がいた。しかしアッシェンバッハは……[略]……この若者が偽物であることに気づいて、一種の驚愕を感じた。年寄りであった。疑う余地がなかった。しわが目と口を取りまいていた。頬の鈍い赤色は化粧だった。

 まるで自分も若者であるかのように振る舞う老人を見て、アッシェンバッハは嫌悪を感じる。そして「夢でも見ているように馴染んだ世界が消え、歪んで奇妙なものに変わり始めているような気がした」。

 死と破滅への旅の始まり始まり、である。

 

 上記の描写もそうだが、ヴェネツィアに着いてから出会うポーランド貴族の美少年タッジオについてもその外見や服装に関して、事細かに書き記されている。読んでいるだけでアッシェンバッハのねっとりとした視線を感じられるようだ。

髪の長いおそらく十四歳くらいの少年。この少年が完璧に美しいことに気づいて愕然とした。うち解けないその顔は青白く優美で、蜂蜜色の髪の毛に囲まれ、鼻筋は真っ直ぐ下に通って、口は愛らしく、優しく神々しいまでに生真面目な表情を浮かべ、もっとも高貴な時代のギリシア彫刻を思わせた。

 セーラー服、赤い蝶結びのリボンのついたストライプのリンネルの服、青と白の水着……。もう舐め回すようにじろじろ見ている。タッジオも当然この視線に気がつき、そのうち彼を付け回すようになるアッシェンバッハのほうを何度も振り返るようになるのだが、もう……お気の毒さまとしか言いようがない。育ちがいいので嫌な顔をしたり、罵詈雑言を浴びせたりということは決してしないタッジオだが、これほどまでに見つめられ付け回されたら、恐怖と嫌悪を感じていたことは間違いないだろう。これはハラスメントですよ。本当に気の毒になる。

 ちなみにこのタッジオにはモデルがいて、作者のマンが実際にヴェネツィアで出会ったポーランド貴族の少年(当時11歳)で、名前もほとんど同じ(この少年男爵は当時ヴワージオとかアージオとか呼ばれていたらしい)、ヤスというあだ名の年上の男友達がいたというのも同じで、映画に出演したビョルン・アンドレセンのような美少年だったという。当時30代のマンにじろじろ見つめられていることにも気づいていたし、本作品のポーランド語訳が出版された時にモデルは自分だと分かったらしいが、マンが死去するまでそのことを公言しなかった。うーん、さぞかし気持ち悪かったでしょうね……。

ベニスに死す (字幕版)
 

 

 一方のアッシェンバッハはタッジオの中に、『オデュッセイア』に登場するパイケーエスの子供などといったギリシア神話の美男子を見ている。見ているだけで幸福になれるかのような神々しい美。それは新たな作品を書き上げるインスピレーション源となるのだが、同時にアッシェンバッハの身を滅ぼすことにもなる。タッジオを心ゆくまで見つめていたいがために、コレラが流行して周りの旅行者はほとんどがヴェネツィアを引き上げたというのに街に残ることを決意し、挙げ句の果てに失った若さを取り戻そうと化粧をしたり奇天烈な服を着たりと、おかしな真似を始めるのだから。

 街も老人も滅びようとする中で、より一層タッジオの美しさが際立つのだけれど、タッジオ自身も何かしらの病気を抱えているであろう(顔が青白く、長くは生きられないように見える)ことから、この美少年が死神のようにも思えてくる。

 タッジオに対するアッシェンバッハの感情が恋というよりも憧れ、畏敬であることからも、ますますアッシェンバッハを死へと導く存在のように感じられるのだ。

 そういうトート閣下に魅入られたエリザベート、じゃなかった、アッシェンバッハという若干無理矢理な解釈で読み進めるしか、私自身の内側に沸き起こってくるおぞましいという感情に打ち勝つ方法はなかった。

 もう少し年を重ねたら、また違う読み方ができるだろうか。