[Como Me Hice Monja]
セサル・アイラの『わたしの物語』は、読者が裏切られ続ける物語。
とにかくやられた感がすごいのだ。
- 作者: セサル・アイラ,柳原孝敦
- 出版社/メーカー: 松籟社
- 発売日: 2012/07/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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原題は"Como me hice monja"、「わたしがどのように修道女になったか」。「わたし」がどのように修道女になったかをお話ししますね、という調子で始まる回顧録である。ふむふむ、と読み始める。
「わたし」が6歳の時、いつもは厳しい父がアイスクリームを食べさせてやるとお店に連れて行ってくれた。アイスを食べたことのない「わたし」は喜び、イチゴのアイスを口に入れる。
?!?!?!
アイスはとにかくマズイ。「甘くて美味しいだろう」と満面の笑みで尋ねる父に「ひどい味! 苦いの!」と叫ぶ「わたし」。
ここで最初の裏切りポイントが訪れる。修道女になった話ということだし、会話は完全に小さな女の子と父の会話。なのに、父は「アイスがまずい」と言い張る私に向かって
お前は本当に馬鹿息子だぞ
と繰り返す。なるほどなるほど、トランスジェンダーの男の子の話なのだな。とすると、このピンク色の甘く優しいイチゴのアイスは女性性を表しているのだろうか? このエピソードはマッチョな父親と分かり合えない悲哀、皆がよしとするものがいいとは思えない「わたし」の孤独を表しているのだろうか? と当然邪推する。
ところが、その後の顛末としてはイチゴのアイスは本当に腐っていて、父が無理やり「わたし」に食べさせたために「わたし」は食性青酸中毒になってしまった……ということが分かる。で、その後は延々と病院や3ヶ月遅れて参加することになった小学校の描写が続く。
え??? どういうこと??? と頭の中がハテナでいっぱいになる。
まことしやかに色々語られるが、前半では
きっと、すぐにわたしの言うことを逆に解釈したほうがいいことがわかったのでしょう。だってわたしはいつも嘘をついていたのですから。
という言葉も出てきて、「こいつは信用できないな」という気分にさせられる。
しかも、「わたし」は誰に対しても「ありのままの本当のわたし」でいるということがない。大げさな演技を繰り返すドラマクイーンなのだ。
わたしの心の中の劇場の幕が上がっていきました。
修道女はどこに行ったんだーと思っているうちに、なんと読み終えてしまう。修道女は出てこないし、「わたし」はずっと6歳のまま。
なんというか、望んでもいないのに脳みそをぐちゃぐちゃにシャッフルされた気分。
でも子供の自分語りとはこういうところがあったなあと自分の幼少時代を懐かしく思い出した。大人になってこんな文章を書けるなんて、これは稀有な才能ではないか。
ちなみにアイラは、ボラーニョが「今日のスペイン語作家の中で最も優れた三人、もしくは四人の一人」と語る鬼才。
『文学会議』は未読なのだが、この脳みそシャッフル体験が心地よすぎて今日にでも読みたくなってしまった。
『文学会議』によせる各人のコメントも、ますます読みたくなるようなものばかり。
たちの悪い、厄介なことを仕掛けてくる、頭のおかしな人がセサル・アイラである。以前に読んだ『わたしの物語』が相当どうかしていたので、この人の言うことは話半分で聞くことにしよう、と心に決めて読みはじめた。予想通り、今回も頭がおかしい。
松田青子
体験したことのない読み心地。小説はこんなに自由なものだった! 奇想天外、奇妙奇天烈なことは間違いないが、それが妙に不徹底だったり、ときどきすごく唐突に尖鋭化したり……まさに一ぺージ先は闇。だがなんと魅カ的な闇だろう。
柴田元幸
タイトルについて(ネタバレあり)
これには仕掛けがあって、アルゼンチンで流行っている言葉遊び(ルンファルド)を取り入れたタイトルらしい(あとがきより)。
日本語でいうところの「ザギン」や「シースー」ですね。
修道女(monja)を反対にすると、ハム(jamón)になる。「ハム」がこの言葉遊びで何を意味するのか? というのがタイトルの答え。なるほど〜! と膝を打ちつつも、これではスペイン語圏以外の人には分からないよねえとも思った。