[Записки из подполья]
そういえば『地下室の手記』を読んだことがないなあと思って手に取ってみた。
『カラマーゾフの兄弟』などの大作を生み出すきっかけとなり、ジッド曰く「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」とされる重要な作品。
これがなんとも言えない味わいのある小説だったのである。
感想を一言で表すなら「ぷぷぷ」かな……。
オススメの読み方
私の周りには「読もうとしたが、数ページで挫折した」という人がちらほらいる、この小説。
このブログを見てくださっている読書好きの皆さまには不要な話だろうとは思うのだけれど、読み始めて「こりゃダメだ……」と思ってしまった時にはオススメの読み方がある。
ずばり、全体の1/3の長さがある第1章「地下室」をすっ飛ばして、第2章「ぼた雪にちなんで」から読み始めるのである。
第1章は、すでに地下室の住人となっている主人公ネクラーソフ(40歳)の独白。
これがなかなか読みにくい。
とにかく自意識の塊のような男で、うじうじと他人を責め、ああでもないこうでもないと一人でしゃべりまくる。
彼自身に興味が持てなければちっとも面白くないのだが、およそ魅力的な人間とは言い難いのだもの。
この独白は、
ぼくの感じでは、このぼた雪が機縁で、いま、どうしてもぼくから離れようとしないあの話を思い出したのらしい。それなら、これも、ぼた雪にちなむ物語ということにしておこう。
という言葉で締めくくられる。
そして第2章は、地下室の住人が24歳の時に起こった出来事が描かれている。
第2章を読んでから第1章を読むと、なぜ彼が地下室にこもって陰々滅々としているかもよく分かるので合理的だ。
自意識過剰男のなれのはて
第2章を読むと、ネクラーソフが若い頃から自意識過剰でプライドばかりが高かったのだということがよく分かる。
かなり繊細で、感情豊かなのだ。
ちょっとしたこと(人にぶつかられた)で激怒し、相手に決闘を申し込む妄想をしながら現実では何もせず、それでいて何年もそのことを恨みに思っている。
ぼくはもうそのころから、内心に地下室をかかえていたのだ。
さぞかし生きにくいであろうと感じてしまう。
そんなある日、ネクラーソフはズヴェルコフという学生時代の人気者が仕事で地元を去ることになったと知る。
ぼくは、ハンサムだけれど間の抜けた彼の顔や(もっとも、その顔とだったら、ぼくはいつでも自分の利発そうな顔を取りかえてやるつもりだったが)、四十年台の流行だったいかにもなれなれしい将校然とした物腰を憎んだ。
自分とは正反対のところにいる、認めたくはないが憧れの存在。
主人公は誘われてもいないのにズヴェルコフの壮行会に参加し、散々嫌味を言い場の雰囲気を盛り下げまくる。
何のためにやってきたんだか。大迷惑なやつである。
が、それもこれも自分に注目して欲しいがゆえの行動。
「ねえねえ、みんなぼくを見てよ! ぼくのことすごいって言ってよ!」みたいな心の声が聞こえてきそうだ。いやいや、今夜の主役はあなたじゃないんだってと時を超えて突っ込んでしまう。
ひらがなの「ぼく」という一人称もぴったり。
最終的には売春宿でみんなとはぐれてしまうのだが、そこで出会ったリーザという女の子に恋をし、彼女に「自分の全てを受け止めて欲しい」と言わんばかりに気持ちをぶちまけて、ドン引きささせる。
三島由紀夫もこう言っているよ。
どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。
三島由紀夫 「告白するなかれ*1」
ここばかりは、ズヴェルコフくんや取り巻きをよく観察して、女に好かれる男がどういう振る舞いをしているのか勉強しておけばよかったね……。
現代の引きこもり問題
この作品は、現代の引きこもり(人とのコミュニケーションを取りたくない、自分の世界に閉じこもっていたい)問題ともつながりがあるとよく指摘されている。
ロシアは特に、1年のほとんどを雪の中で過ごすような国なので思考が内へ内へ向かってしまうのだろうなという気がしなくもない。
ドストエフスキーがメキシコに住んでいたら、全く違う小説を書いていただろう。
でもその厳しい環境が世紀の大作家を生み出したのだなとも感じる。
ちなみに先日までPrime Readingリストに含まれていたのでKindle版は無料で入手できた(今はリストから外れてしまっている)。
最初はそういう理由で読み始めたのだけれど、液晶に疲れ(仕事もPCとにらめっこですから)新潮文庫を購入しました……。
紙の本とKindleと両方買うこと、最近はよくあります。
それではみなさま、今日もhappy reading!
*1:『不道徳教育講座』に収録。