トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『見えない都市』イタロ・カルヴィーノ

[Le Città Invisibili]

 旅に出るといつも考えることがある。

 隣にいる人(夫、友人、家族)の目に映る風景は、私が見ているものと同じなのだろうか?

 初めてこの街を訪れた時の私の目に映った「街」と、三回目に訪れた「街」は何が違っているだろう。どうすれば最初の感動が手に入るのだろうか?

 この街で恋に落ちた幸せな人の目を借りれば、バラ色の景色を見ることができるのだろうか? 

 

 都市には訪れる人の数だけ、いや、その心の持ちようによっても、違う顔があって、まるで蜃気楼のように様々な姿を見せてくれる気がしてならない。それはカルヴィーノの『見えない都市』を読んでいても、考えることだ。 

見えない都市 (河出文庫)

見えない都市 (河出文庫)

 

 訪れた世界中の都市についてフビライ汗に語るマルコ・ポーロ、という『東方見聞録』の形をとったこの小説の語り口の柔らかさが、まず印象に残る。

そこから出発して三日のあいだ東の方へと進んでゆくと、ディオミーラにまいります。都市には七十の銀の丸屋根、あらゆる神々の銅像、錫を敷きつめた道、玻璃づくりの劇場、朝ごとに塔の上より刻を告げる金の鶏がございます。

 マルコ・ポーロが語ることはランダムに見えて整理されていて、不思議な番号の振り方でも分かるように、あるリズムに沿っている。9つの章、55の都市。まるでトレモロのように始まり、同じメロディが反復される。彼の言葉を借りると、「都市が存在し始めるようにと、記憶が記号をくり返しているからでございます」。

 その繰り返しは、フビライ汗が遊ぶ囲碁はもちろんのこと、ローマ式の方格設計(いわゆる碁盤の目のように設計された都市)をも思い起こさせるではないか。

 

 登場する都市も風変わりで記憶に残るものばかり。

 「思い出から湧き上がるこの波で、海綿のように……[略]……ずぶずぶに濡れてふくれあがっている」ザイラ。

 船か駱駝でしか辿り着けないデスピーナ。

 数千万の井戸があるイザウラ。

 「部屋ごとにガラスの球をそなえた金属の宮殿が」あり覗き込むと空色の都市が見えるフェドーラ。

 高い柱の上にそそり立っているゼノビア。

 走り回る裸の女を追い求めた男たちがやってくるツォベイデ。

 蜘蛛の巣都市オッタヴィア。

 それぞれがどこかで見たことのある都市のような、そうでもないような。メタファーが含まれているような、そうでもないような。これは読んでみて、頭のてっぺんからつま先までこの世界に浸ってしまうのが一番幸せな気がする。

 もしくは、自分で創造してみるかだ。『見えない都市』にインスパイアされて生まれた芸術作品は驚くほど多く存在する。先日も森美術館で『見えない都市展』が開かれていたし*1、『MONKEY vol.12 翻訳は嫌い?』でも『見えない都市』の翻訳とともにinterpretationされ描かれた絵が掲載されていた。翻訳は和田忠彦さん、絵はマット・キッシュさん。都市と名前1、都市と記憶1、都市と記憶4、都市と記号3、都市と欲望5、隠れた都市2が登場する。どれも素敵で、読み惚れて&見惚れてしまう。

 Literary Hubの特集もすごい! あなたの思い描いた都市がそっくりそのまま絵になっているかも。

lithub.com

 

 でもよく考えてみると、東方の言語をまったく話せないマルコ・ポーロは身振り手振り、表情、しぐさでどうにか都市についてフビライ汗に伝えている。つまりフビライ汗は言葉に頼ることなく、全て自分で想像して、自分なりに解釈しているのだ。その解釈が、どこまでマルコ・ポーロの見た風景と重なるのだろうか。きっとフビライの想像の中では現実以上に美しい街が浮かび上がっているにちがいない。いや、そもそもヴェネツィアという街出身のマルコ・ポーロにとって、どこまで故郷を離れて客観的な目で新たな街を見つめられるというのだろう。彼自身が言っているように、どの街を訪れてもヴェネツィアの幻影が浮かび上がる。というわけで、旅行先でいつも考えること(上記)を読書中も考えてしまうのである。

遠い都会の見も知らぬ街並に迷いこんでゆけばゆくほど、そこにたどりつくまでに通り抜けて来たほかの都会がますますよく理解できるようになって来ており、今では数々の旅の道すじをさかのぼり、こうして船出して来た港、少年時代の馴染の場所、家の周囲、幼いころに走りまわったヴェネツィアの街の広場を知ることも学んで来ているのだ、と。  

 マルコ・ポーロのこの言葉が一番好き。

他処なる場所は陰画にして写し出す鏡でございます。旅人は自己のものとなし得なかった、また今後もなし得ることのない多くのものを発見することによって、おのれの所有するわずかなものを知るのでございます。

 

  ちなみに丸谷才一は、本書のレビューにこう書いている。

かういふ、まことに美しい断片がちりばめられて(米川良夫の翻訳は推奨するに足る)、一つの長編小説ないし散文詩集は形成される。が、その美の正体は何なのか。あるいは、この一冊のパロディの主題は何なのか。都市論をうんとしやれのめした形で展開することなのか。語り手マルコ・ポーロは小説家で、聞き手フビライ汗は読者といふ意味合の小説論なのか。来日した作者に向って「あなたの小説は何の寓喩なのか」と訳者が訊ねたとき、答はかうだつた。

「たぶん……無の寓喩」

快楽としての読書 海外篇 (ちくま文庫)

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