[La porte étroite]
力を尽して狭き門より入れ。
『ルカ伝福音書』第一三章二四節
子供の頃は祖母や母の影響で、フランス文学を読むことがすごく多かった。
特に『狭き門』は二人のお気に入りだったと記憶している。
光文社古典新訳文庫で出ているのを発見したので、久しぶりに再読。
子供の頃読んだ記憶としては、かなりプロテスタント(ちなみにアリサのモデルとなったジッドの従姉マドレーヌは後年カトリック教徒となる)色が強く道徳小説のような……なぜアリサがわざわざ受難の道を選ぶのか理解できず、頭の中にいくつもはてなが浮かんだまま読み終わった、という感じ。今読むと、むしろプロテスタントを批判している、宗教に疑問を投げかけているというのが分かるのだが。
しかも古い文学全集で読んだので、かなり長い間ジッドはもっと昔の人だと勘違いしていた(恥)。まさか1951年までご存命だったとは。ノーベル文学賞を受賞していたとは。
子供の頃から一緒に育ったジェロームとアリサはいとこ同士で、相思相愛だった。アリサはジェロームより二歳年上なことを気にしていたけれども、ジェロームは将来アリサと結婚するつもりでいた。しかしジェロームが学校に入り、歳を重ねるにつれて二人の関係は変わっていく。アリサはジェロームと婚約できないと言い張るのだが……。
この、自分を犠牲にするような人生を歩んだアリサを愛するジェロームを描いた物語がこれほどまでに長い間読み継がれているのは一体どうしてなのだろう?
ジェロームがアリサの妹ジュリエットではなくアリサに惹かれるのは必然だとも思える。天真爛漫で裏表のないジュリエットより、どこか影があり苦しんでいるアリサに魅力を感じ、今は亡き自身の母親と重ねてしまう。
ジェロームが外の世界を知り成長するにつれて、田舎を離れることのないアリサだって変わる。自身に流れる血を呪い、幸せになってはいけないという強迫観念を強めていく。それは信仰という形でも現れ、自分を犠牲にすることで魂が救われるという思いのもと、ジェロームが言うところの「通俗的な信仰」にのめり込んでいくのだ。
この辺りが、子供の頃読むと「いやに道徳的な人だなあ」と思えたのだが、今読み返すとなんだかカルト宗教にはまってしまった人の話を読んでいるような気がしないでもない。これはジッドのプロテスタントへの批判的な姿勢を読み取れるようになったからか、それとも宗教というものがどんどん遠く感じられる風に時代が変わったからか。
それでも素直に愛を受け入れ幸せになった妹のジュリエットについて書かれたアリサの日記を読んでいてもそう思う。
ジュリエットは幸福だ。自分でもそう言っているし、外からもそう見える。わたしには、それを疑う権利も、理由もない……。ではなぜ、いまあの子のそばにいると、わたしは不満足な気持ちや居心地の悪さを感じるのだろう?ーーおそらく、その幸福があまりにも実際的なもので、たやすく手に入り、まったく「型どおり」のものなので、それが魂を縛り、締めつけているように見えるのだ……。
うーん、こじらせているな、と現代を生きる私は唸ってしまう。
アリサのジェロームに対する態度は、三島由紀夫の『春の雪』における松枝清顕的なところもあるようで、grow upと言いたくなったり、こういう二人のすれ違いが悲劇だったのだと思ったり。
信仰という壁に阻まれて愛を全うできない二人、という関係なのだが、昨今ティーンエイジャー向けの日本やアメリカの映画って「余命わずか」だとか「不治の病」だとかで片方が苦しんでいるものが多く、そういうCMを見ていると今も昔も変わらないな、愛を描く上でなんらかの障害が必要となってくるんだなと思ったり。