トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

宝塚・花組『うたかたの恋』観劇前に読んだ本

正直なところ、『うたかたの恋』は上演が発表されて大喜びしちゃうような作品ではない。心中というテーマが古めかしいだけでなく、歌も昭和の香りがして仰々しいと思っている。

それに、マリーというヒロインは娘役にとってかなり危険な役ではないだろうか。誰がどう演じようと、かまととぶった雰囲気がつきまとうし、現実離れしていてなんとなく鼻につく。

いつもなんとなく「あーお衣装が素敵……」とボーッと観るだけなのだが、今回は久方ぶりに大劇場で再演ということで、これではいけないと一念発起した。退屈、つまらない、好きじゃないというのは簡単だけれど、そういう感情は無知から生じていることが多いのだから。すべてわたしの無知ゆえ。とにかく知るのだ!

 

 

『Mayerling』クロード・アネ

まずはクロード・アネの原作を。邦訳の『うたかたの恋』は全然見つからなかったので、英訳を(フランス語の原著もちゃんとKindleにあった)。

今や忘れ去られた作家だが、『マイヤーリンク』はもちろん、Ariane, jeune fille russeも『昼下がりの情事』として映画化され、どちらもオードリー・ヘップバーンが主役を務めているのだから、当時(といっても映画が公開された1950年代にはアネはすでに死去している)の人気っぷりがうかがえるというもの。

宝塚らしく潤色してあるのかと思いきや、けっこう原作に忠実だのだなという印象を受けました。どこまでも夢夢しく、ドクロやピストルといった小物を効果的に使いながら、ルドルフとマリーが悲劇的な結末に向かって突き進む。

退廃的なウィーンの雰囲気が味わえるのがよいし、副題は「The Love and Tragedy of a Crown Prince」だけあって、ルドルフはハンサムで不幸な王子として魅力的に描かれている。そのイメージはハムレットと重なる。

ジャン・サルバドル(ヨハン・ザルヴァトール)の比重も大きく、ルドルフには叶えられない愛を貫く人物として格好良く描かれている。

そして、マリーの描写が、舞台よりずっとよい。ルドルフと出会う15歳の頃の彼女は、ウィーンに舞い降りた女神ディアナ(マイヤーリンク=狩りのイメージとうつくしくつながっているなと思った)に例えられていて、典型的なウィーン娘とは一味違うエキゾチックな雰囲気を醸し出す。

「ジュリエットと同い年」と言及もされているとおり、『ロミオとジュリエット』よろしく若さゆえに死を選んでしまう激しさがよく表現されている。なんというか、このマリーならルドルフに手を引かれて、というよりときには若干ルドルフを導きながら死へ進んでいくだろうな、と思った。皇太子妃ステファニーを見て「きれいじゃない」とライバル心を燃やす場面とかも、15〜6歳の少女らしくて面白かった。

 

『「うたかたの恋」の真実ーハプスブルク皇太子心中事件』仲晃

こちらは柚香光さんが、『エリザベート』でルドルフを演じたときにバイブルのように繰り返し読んだと発言していて、絶版だったのが復刊された作品。

めちゃくちゃ面白くて一気読み。『うたかたの恋』がご都合主義のロマンス小説だとこき下ろしているのだが、アネの小説の描写をところどころ取り入れつつも、現実に近いルドルフ像を披露する。

この本ではルドルフを「ハムレット、ドン・キホーテ、ドンファン」に例えていて(ちなみにハムレットとドンファンとの比較は、アネの原作にも登場する)、今回大劇場での上演でも同じ台詞があったけれど、この本からとったのかな? いつもそうだったかしら? 今回追加されたのかしら??

森鴎外の「うたかたの記」を読みたくなった。

 

『天上の愛 地上の恋』加藤和子

ルドルフというとどうしても、○○で△△でほんとどうしようもないな〜と思ってしまうので、ルドルフの印象をどうにか向上させようと思って手に取った漫画。今でいうBL? かな??

主人公はバイエルンで生まれた孤児アルフレート(最初の登場のときは12歳)。ひょんなことから皇太子ルドルフ(8歳)が湖畔で、男性の死体の前にかがみ込んでいるところを目撃する。その後、ルドルフの命でウィーンのホーフブルク宮にあがり、ルドルフの遊び相手となる。

孤独なルドルフはオーストリアの将来について案じている。常に教会とともにあったハプスブルク家は、教会の権威が揺らぎつつある今、その余波を受けている。ルドルフの考えを知るにつれ、彼を支えたいという気持ちを強くしたアルフレートは修練院に入り、内側から教会の動向を探ることを決意する。

いや〜、これめちゃくちゃ面白かった! 古本探して購入するの大変なので、Kindleで出してほしいよ〜。ルドルフがこれほどすてきに描かれているフィクション、他にはないと思う。

 

『ハプスブルク家の女たち』

フランツ・フェルディナンドの比重が増えるというので、こちらも久しぶりに再読。彼の妻となるゾフィー・ホテクについても割と詳しく書かれている。

 

色々読んでから観劇したら、いつもの何倍も楽しめました。今年もたくさん観て、読めるといいな!

 

 

 

最近読んだ「犬」小説

どうやら、犬を飼うDNAというものがあるらしい。犬とヒトとの共存の秘密は、遺伝子に刻まれているらしい(英国とスウェーデンの研究による)。

人生の大半を犬と暮らしている人間としては、わかるわかるーと頷いてしまう。家族の古いアルバムを開けば、父方&母方どちらの祖父母もおじ・おばも嬉しそうに犬と写っているもの。

犬とはまったく縁がないと話していた恋人(今の夫)の実家に初めて遊びに行ったときも、アルバムを見せてもらって嬉しくなったものだ。彼の祖父母、おじ・おば、いとこたちの写真にはしっかり犬が写り込んでいた。大型犬を赤ちゃんみたいに抱っこしてにっこり笑っている人、お座りする犬に寄り添っている子ども、すました小型犬と乳児のツーショット。初めて見る人たちが犬を見つめる表情は、わたしもよく知っている表情で、どこか懐かしく甘やかに感じた。

さて、こちら(↓)は最近読んだ&読んでる&これから読む、犬小説です。

 

 

『雌犬』ピラール・キンタナ(村岡直子訳)

雌犬

雌犬

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雌犬(しかも野良出身で出産経験あり)と暮らしているわたしとしては「これ、絶対に読んじゃいけないやつ……結末はわからないけど、多分冒頭からとんでもなく辛い気持ちになるやつ……」と思って避けていたのだが、スペイン語文学イベント「女と動物のままならぬ関係」での訳者・村岡直子さんのお話がとんでもなく面白くて即買いした(『兎の島』訳者の宮崎真紀さんのお話も面白かった! こちらはイベント前に入手済み)。

舞台はコロンビアの大西洋岸にある小さな村。首都ボゴタから延々と伸びる40号線の終着地、ブエナベントゥーラからさらに海の方へと進んだ場所だ。家があるのは崖の上、裏にはジャングルが広がる。

何よりほしかった子どもに恵まれぬまま40歳を迎えようとしているダマリスは夫ともうまくいかず、希望の見出せない日々を過ごしている。ところがひょんなことから雌の子犬を譲り受け、寒がらないようブラジャーの中に入れて育てる。女の子が生まれたらつけたいと思っていた名前をつけるが、成長した雌犬はダマリスの思い描いていたような犬にはならない。

ダマリスが暮らしているのは、決して楽園のような場所ではない。彼女も含め周りはみな貧しく、嵐がくると揺れるような木造の小屋に住んでいるのだが、その嵐や真夜中の雷、すべてをぼんやりと覆い隠す雨、息を呑むような夕景、凪いでいる海、そしてなにより鬱蒼としたジャングルについて読んでいるうち、自分も確かにこの風景を見たことがあるような気持ちになる。

ダマリスは子どもができないことで「女性としてぽんこつ」という劣等感を抱えているばかりか、幼少時のとある事件によって罪悪感に苛まれてもいる。だからもっと痛めつけられて当然なのだという思いがどこかにある。そしてこの思いこそが、娘のように、つまり自分の分身のように大切に育てたのに、自分と正反対の存在になってしまった雌犬に対する歪んだ感情を生む。原題のLa Perraも、英語訳のThe Bitchも、犬というだけではなく女性性に対するそうした侮蔑的な感情を彷彿とさせる……せっかく犬に与えた名前をダマリスが呼ぶことはほとんどないのだ。

こんなにも赤ちゃんを待ち望んでいる自分は不妊なのに、愛犬は何の苦労もせず妊娠してぽこぽこと子どもを生むんだからと、そういえば『セックス・アンド・ザ・シティ』のシャーロットもぼやいていたなあと思い出す。もちろんシャーロットは愛犬を疎んじたりしない。出産が始まれば「Elizabeth Taylor! Mommy's coming!」(ぎょっとするほど台詞を覚えてるSATCオタ)と大切な「娘」の元へ駆け寄り、幸せいっぱいの笑顔で子犬を抱き上げる。

ダマリスの友だちだった裕福なニコラシートだって『ジャングル・ブック』が大好きで、動物に人間が助けられる物語を当然のものとして受け入れていた。ダマリスはありえないと一蹴するような物語を。愛とお金はこういうところで切っても切れない関係性を見せつけるのかもしれない。

偶然、この本の前に読んでいたのがロルカの『イェルマ』を含む三大悲劇集だったので(つながりについて訳者の村岡さんがあとがきに書いている)、不妊=呪いのモチーフというか関連性も興味深かった。

 

『ぼくの名はチェット』

これは犬人間から貸してもらったミステリ。面白かったー!

私立探偵のバーニーが、警察犬訓練所を優秀な成績では卒業しなかった愛犬、チェットとチームを組んで謎を解決する。物語がチェットの視点から語られるのがよい。擬人化された犬ではなく、リアル「犬」な感じが、他にはちょっとない特別な作品。バーニーが口にするちょっとした比喩が理解できなくて「え?? 何言ってんの?」って感じになるチェットがとにかくかわいい。

犬好きなスティーヴン・キングが絶賛したというのも頷ける。3巻まで邦訳が出ているから読もうっと。

 

『犬婿入り』多和田葉子

表紙がすべてを物語っている。ちなみに先月待ちに待った『太陽諸島』を購入したところで、「犬婿入り」ってどんな話だったかなあと思って久しぶりに再読。この文庫は、「ペルソナ」との2本立て。

 

『子犬たちのあした: ロンドン大空襲』

これは装丁のわんちゃんが、子どもの頃きょうだいのようにして一緒に育った犬ととても似ていたので即買いし、内容も素晴らしくて将来子どもと読みたい本リストに入れている作品。ドイツ軍の攻撃が毎日のように続く戦時下のロンドンで、人間の家族とはぐれてしまった雌犬(しかも妊娠している)の体験と、彼女が紡ぐ人間同志の絆の物語。

ウクライナの情勢を見ていて犠牲となった動物のことを知ると、この頃と何も変わっていないなと落胆することもあるけれど、本書と同じように小さな命を助けることにすべてを捧げている人がいることを学び畏敬の念でいっぱいになることもある。

 

"Neighborhood Dogs" / Taisia Kitaiskaia

The Literary WitchesのKitaiskaiaの短編? エッセイ?

めちゃくちゃ面白かった。「Most of the dogs in my neighborhood are unremarkable, uncharismatic.」から始まり、犬種から人を連想する。

たとえば、金色の毛をした陽気なゴールデン・レトリバーは「アメリカらしい犬、屈託がなく何の心配もしなくていい」。一方、ソ連からの移民である彼女の両親はレトリバーを飼おうなんて思いもしなかった。気難しく、人を見れば吠えたて噛み付くことさえある黒いテリアを何匹も育てていた。

とあるゴールデン・レトリバーを見ると彼女が思い出すのは、幼少時代の友人の父親。そして当時決して裕福ではなかった彼女に対する冷たい視線。そこからばーっとレトリバーでもテリアでもない、彼女らしい生き方を見つけた解放感が語られるのだが、その流れと最後の文章がすてきで、犬好き人間らしさがあふれてる感じ。

 

今読んでる&これから読む「犬」小説

Dogs of Summer / Andrea Abreu(Julia Sanchez訳)

カナリア諸島出身(テネリフェ島)の著者が、その方言を用いて綴る10歳の女の子と彼女の親友、Isolaの日々。原書が手に入らなくて、英語訳を。ちなみに原題はPanza de Burroで、特に犬は関係ない。すごく工夫されているのだろうなという訳で、方言と子どもならではの視点が入り混じる様に魅了される。

犬は出てくるのか? なぜ英語タイトルは犬?? 原題から察するに、Dog days of summerにかけてるのかな? まだわかりません。とりあえず、著者はめちゃくちゃかわいいわんころりんと同居している様子(Instagram調べ)。読み終えたらまたレビューを書きたい……です。

 

『十五匹の犬』アンドレ・アレクシス(金原瑞人・田中亜希子訳)

とても味わい深く、なぜだか少しずつ読んでいる本(今半分くらい)。なぜかトロントのタヴァーンにアポロンとヘルメスが降臨し、人間の性質について話し合う。そして、なぜだか犬に人間の知性を与えたら、死ぬとき幸せを感じるかどうか賭けようという話になり、ランダムにフリーダムに、近くの動物病院に預けられていた15匹の犬に知性を授けるのだが……というお話。

神々の不条理さはリアルギリシャ神話だし、知性を与えられて苦悩したり言葉遊びに無情の喜びを感じたりする犬に共感を覚え、野良の生活の厳しさには身をつまされる。

そして、プリンスという犬のつくる詩が! とても良いです。これは……?と不思議に思って付記を読んだら、詩のコンセプトについて説明してあり、思わず膝を叩きました。本書はひいては翻訳に関する物語でもあるのだというようなことを語っている著者のインタビュー(下)も面白い。この記事の写真で著者と一緒に写っているプードルさんは著者のわんちゃんなのか?

Q&A with Andre Alexis: Fifteen Dogs author talks about animals as allegory and his bond with words | CBC News

 

『犬身』松浦理恵子

これは長らく積んでいる本! そろそろ読みたい。

 

www.tokyobookgirl.com

 

白人として生きる黒人女性の話『Passing』(ネラ・ラーセン)

 ここ数週間、やたらと出版社さんのSNSでネラ・ラーセンのPassingを見かけるので、???と思っていたら、Netflixで映画化されていたのだった。

www.netflix.com

 いい機会だから読んでみようと購入した原作も短めだし、映画も1時間半ちょっとと短めなので、さっと読んでさっと視聴したのだが、深い余韻の残る作品である。映画の方は女優レベッカ・ホール(『それでも恋するバルセロナ』のヴィッキー役など)の監督デビュー作。1920年代を舞台にした物語で、白黒で撮影されているのだが、その色調によって「白人のふりをする黒人」という問題が浮き上がってくるのはもちろん、ニューヨークの街の光と音の美しさが際立ち、なんとも印象的。

 こちらはNetflix版の装丁。

 日本語訳もあるようですが、絶版になっているみたい。映画化を機に復刊されるといいなあ。

 

【Updated: 2022-03-14】

 と思っていたら、新訳が出るみたいですね。みすず書房より、翻訳者は鵜殿えりかさん。装丁もすてき!

www.shumpu.com

 主人公のIrene Redfield(アイリーン・レッドフィールド)は、肌の色の薄い黒人だ。1920年代の黒人文化ルネッサンスの中心地、ハーレムに暮らしている。自分よりも肌の黒い黒人男性と結婚し、子どもの肌の色も黒い。夫は医師で、Ireneは専業主婦として日々の生活を営んでいる。

 そんな彼女はある日、1人で買い物に行った際、一時的に「passing(白人のふりをすること)」して、黒人の入店は許されないような高級喫茶店に立ち寄った。店内では見覚えのない白人女性から声をかけられる。黒人であることがバレたのだと思ったIreneは焦るが、実はその「白人女性」はかつてのクラスメイトで黒人のClare Kendry(クレア・ケンドリー)だった。Ireneよりさらに肌の色の薄いClareはpassingして、現在は白人として生活していた。黒人を忌み嫌う白人男性と結婚し、生まれてきた娘も肌の色は白いのだという。

 だが、自分自身に嘘をつくような生活に疲れているClareは、Ireneと接するうちに自分が捨て去ったはずの黒人文化に魅せられ、ハーレムに居場所を持つIreneを羨むようになる。Ireneもまた、Clareにイライラさせられながらも、その魅力に惹かれていく。

 この作品の魅力はなんといっても、白黒つけられない「曖昧さ」にあると思う。たとえばpassingをしているClareにIreneは批判的な視線を向けるのだが、Ireneだって一時的にpassingをすることはある。それだけではなく社会的階級の高い黒人としてメイドを雇い白人に近い生活をしているし、息子は(米国の白人がよくやるように)スイスの寄宿学校に入れたいと考えているのだ。夫はブラジルへの移住を望んでいるのだが、Irene自身は未開の地では生きていけないといわんばかりの態度をとる。

 おまけに米国にはまだ黒人差別が根強く残っているという事実を、彼女は息子たちに教えようとしない。何も知らなければ純粋なままでいられるとでも信じているかのように、人種差別が存在しているという事実から顔を背けようとする。差別があることをきちんと説明し、世界へ羽ばたいていくであろう息子たちに現実を教えたいと考えている夫とは、当然ながら対立関係にある。2020年代を生きている私たちは、そういう無知が差別を助長するのだということをよく理解しているから、Ireneについて読んでいるとなんともいえない気持ちになる。

 もう1つ曖昧なのが、セクシュアリティだ。Ireneは夫がClareに惹かれているのではないかと疑ったりもするし、Clareのことをかなり鬱陶しいと感じているのだが、誰よりも彼女の魅力のとりことなっている。会うまではイライラして、会いたくないとすら感じているのに、いざClareの姿を見るとそのあまりの美しさに感嘆し、惜しげもなく賞賛の言葉を投げかける。夫にも他の男性にも感じない魅力を、Clareに感じていることがよくわかる。しつこいほど何度も登場する「queer」という言葉(主にアイリーンが息子の性的なジョークに言及する際使うのだが)が2人の曖昧な関係性を浮き立たせているようだ。

 そんな曖昧さ、白でも黒でもなく、あらゆるトーンのグレーを集めたようなこの小説の味わい深さが映画でも存分に表現されていてすごくよかった。

 アリス・ウォーカーの『カラー・パープル』も、トニ・モリスンの『青い眼がほしい』も、ネラ・ラーセンから影響を受けていたのだということがよくわかった。あと、去年話題になった、ブリット・ベネットのThe Vanishing Halfを(ベネットは、新しく出版されたPassingの紹介文も書いている)読みたくなった。

www.tokyobookgirl.com

 ほんと、実に2年ぶり!?に映画を観ることができるようになりました。嬉しい。来年は映画館にも行きたい。いや、まだ数週間あるから今年中に行けるかな?

オスカー・ワイルドの『An Ideal Husband / 理想の結婚 / 理想の夫』と、宝塚歌劇団星組の『ザ・ジェントル・ライアー』

 少し前に発表された宝塚歌劇団・星組の東上公演は、オスカー・ワイルドの戯曲『An Ideal Husband(角川文庫では『理想の結婚』)』をもとにした『ザ・ジェントル・ライアー』。もうそろそろ配役が出る頃ですね。

kageki.hankyu.co.jp

 角川文庫版は絶版になっていたようだけれど、復刊が発表されていてなにより! しかもせおっちの帯付きだそうで、角川さん最高!!! 絶対買う。 

 配役が出る前に確認したかったので、初秋に原書を読み、その後図書館で借りた日本語訳を読み返した。

 チルターン邸で開かれたパーティーにロンドンの社交会の華が集まる。その中に新顔があった。しばらくロンドンを離れていたというローラ・チーブリー夫人だ。ローラは、ロバート・チルターン卿に会いにきたのだという。

 実はロバートには、イギリス政府がスエズ運河の株券を買い入れたとき、株式取引書の投機師に内閣の秘密をもらし、その引き換えに得た金で財産を作り上げたという誰にも知られたくない過去があった。そして名士となった今、アルゼンチン運河会社について色々調べているところだ。こちらの運河に関しても、スエズのときと同じような詐欺が行われているということが判明したため、明日の議会ではそれについて告発する報告書を提出する予定にしている。

 ところがローラは、告発をとりやめないとロバートの過去についてばらすと彼をゆするのだった。チルターン卿の妻ガートルードは貞淑を絵に描いたような女性で、当然夫が不正を働いて富を築いたことなど知らない。もしそんなことを知られたら、清廉潔白な妻の心は離れてしまうに違いない。困ったロバートは、友人のアーサー・ゴーリング卿に相談する。

 ローラは、アーサーのかつての思い人だった。今はロバートの妹、メイベルと恋の駆け引きの最中であるアーサーは、友人の秘密を守りつつ、自分の願いを叶えるためローラと取引しようとするのだが……。

 登場人物それぞれに思惑や秘密があり、思わぬ駆け引きに発展するところが読み応え(&見応え)のある戯曲。来年の舞台が楽しみ!

 少々気になるのは、公式のあらすじを読んで多くのヅカオタさんも感じているであろう、『デビュタント』との相似性。正直かなり似ている……と思う。プレイボーイ的な主人公に、ヒロインをぼやかす娘役のさんすくみ状態で、「年上の女性、貞淑な令嬢、活発な元気娘」というところまで同じ。

『デビュタント』から丸3年が経ち、娘役の顔ぶれは変わったものの(桜庭舞さんも星蘭ひとみさんも退団してしまったし)、状況はほとんど変わっていないという印象を受ける。ポジティブに考えると、多くの娘役さんに見せ場をつくる機会ではある。あとはやはり礼真琴&舞空瞳さんの任期が長いのかなとか、組み替えしてきたばかりの詩ちづるさんの風除けかなとか、色々頭に浮かびますが、いずれにせよ観劇が待ちきれない。

 以下は配役予想です。セリフは角川文庫の厨川圭子さん訳より。

 

アーサー・ゴーリング卿(発表済み:瀬央ゆりあ)

快楽でも追わなかったら、人生なんか生きる価値なしですよ。幸福な人生なんて、すぐ色あせてしまいますからね。

 花の95期! 95期についてよく覚えていることがある。まだまだ下級生だったころ、ことちゃんかちゃぴちゃんがスカステで「95期はみんなすごく仲が良くて、『闘争心が欠けている』とよく先生方から叱られた」、「ライバルだなんて思ったことがない」と話していた。「そんなんじゃ、劇団に入ってもやっていけないよ」というようなことを先生や先輩方に言われたとコメントしていた記憶がある。が、その正反対でしたね。娘役はトップ3人を輩出、男役は現在トップ3人で、2番手&2番目(と書くのが辛いが)が2人、3番手が2人と、後にも先にも例がないようなとんでもない期へと成長を遂げました。

 せおっちは正統派男役の外見に、ユーモラスでアドリブOKな性格のギャップがすてきで、今後順調に2番手or2番目となるのであれば悪役などもこなすでしょうから、こういうプレイボーイな紳士役は見納めになるのかも。

 

ロバート・チルターン卿(予想:綺城ひか理)

金銭(かね)のために身を売ったんじゃない。非常な高値で成功を買ったんだ。

 正直あかさん以外には候補がいないであろう、このお役。長身&美形な2人の並びは新鮮で見応えがありそう!

 

ガートルード(チルターン卿夫人)(予想:小桜ほのか)

私たち女は、愛している時はその人を尊敬しているのです。もしその尊敬を失ってしまったら、私たちは何もかも失ってしまうのです。

 貞淑な妻役はやっぱりほのかちゃんかなあ。ちょっと既視感のある配役になってしまうけれど、あかさん&ほのかちゃんの夫婦デュエットは多くの人の耳を楽しませてくれることでしょう。

 

メイベル(予想:詩ちづる)

「私の勝利」だといいな。私が今ほんとうに興味のあるのは私の勝利だけだわ。

 チルターン嬢。ロバートの妹で、アーサーの現在の恋愛の相手。原作では最後に婚約するので、一番正ヒロインに近い役回りではあるが、舞台でどうなるかは不明。水乃ゆりさんということもあるかな?

 

ローラ・チーブリー夫人(予想:音波みのり)

女の一生で本当の悲劇っていえば、たった一つしかないわ。それは、過去のことをいつも愛人のように思ってなつかしがり、未来のことはいつも夫(ハズバンド)のように思ってあきらめていることよ。

 悪女の役。これも既視感のある配役になってしまうな〜、さすがにないかな。紫りらさんでもいいかもしれない。あと、はるこさんとほのかちゃんは反対でも面白い気がする。

 
 
 
 
 
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『肉体の悪魔』ラディゲ(中条省平・訳): いつ読んでも印象がまったく変わらない不思議な小説

[Le diable au corps]

僕は愛などなくてもいられるように早く強くなりたかった。そうすれば、自分の欲望をひとつも犠牲にする必要がなくなる。

 

Je souhaitais d'être assez fort pour me passer d'amour et, ainsi, n'avoir à sacrifier aucun de mes désirs.

 最初に読んだ14歳の頃から、印象がまったく変わらない不思議な小説。ついでに言うと、どの言語で読んでも、誰の訳で読んでも、変わらない気がする。これは一体なぜだろうか。

 非常に冷静で距離があるというか、ある意味読者を突き放すような筆致にもかかわらず、ものすごくダイレクトに感情が伝わってくる。今回読んだ光文社古典新訳文庫の訳者あとがきで、翻訳者の中条さんは「人間心理のエッセンスをとり出して濃縮し、それを冷凍保存したような硬さと冷たさがラディゲの天才のしるしです」と書いていて、あっそうだ、それそれ、そういう印象だとうなずいた。

『肉体の悪魔』を読んでいると、「僕」以外の人物、つまりマルトやその婚約者、両親の立場でものを考える余裕がなくなる。「僕」によって差し出される感情のすべてがあまりにうつくしい結晶のようで、ついみとれてしまい、それ以外のことが考えられなくなるのだ。

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

肉体の悪魔 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:ラディゲ
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle版
 
Le Diable au corps (French Edition)

Le Diable au corps (French Edition)

 

 早熟な16歳の「僕」は、婚約者を持つ19歳の女性マルトと恋に落ち、逢瀬を重ねるようになる。弟のようだが頼りになる友だちを装い、婚約者が出兵しているのをいいことにマルトの新居の家具を2人きりで選びに行ったり、婚約者がマルトに読むなと言ったボードレールの『悪の華』を読ませたり。マルトの結婚後にはついに肉体関係を結ぶ。

マルトの喜ぶ顔が見たかったというより、今夜、その薔薇はどうしたの、と訊く両親に、マルトが嘘の理由を説明しなければならなくなることが楽しみだったのだ。いま電話でついている嘘を今夜自分の両親にも繰り返し、その嘘にさらに薔薇の嘘が加わる。それは僕にとってキスよりも甘美な愛のしるしだった。

 

Je ne pensais pas tant au plaisir de Marthe qu'à la nécessité pour elle de mentir encore ce soir pour expliquer à ses parents d'où venaient les roses. Notre projet, lors de la première rencontre, d'aller à une académie de dessin; le mensonge du téléphone qu'elle répéterait, ce soir, à ses parents, mensonge auquel s'ajouterait celui des roses, m'étaient des faveurs plus douce qu'un baiser.

 ここを読むといつも本から顔を上げて、「はあ」とため息をついてしまう。好きな人がつく嘘が何よりの贈り物なのだ、この人にとっては。

 幸せは長くは続かない。新婚で夫は出兵中のマルトの部屋にしょっちゅう「僕」がやってくることを近所の人は不審に思い、マルトの評判はガタ落ちするし、いくらマルトが「ジャックと幸福になるより、あなたと不幸になるほうがいい」なんて言おうが「僕」はしょせん16歳で、両親の許可がないとできないことだらけ。それで、この記事の冒頭の「早く強くなりたかった」という言葉が飛び出す。

 繰り返される死の予感についての描写は、わずか20歳で早逝したラディゲのその後や、映画化された際に主演したもののこちらも36歳という若さでこの世をさったジェラール・フィリップの運命につながっているようで、読んでいてなんとも言えない気持ちになる。

 

 少女の頃は、ジェラール・フィリップが表紙のアーティストハウス版(松本百合子訳)の『肉体の悪魔』を持っていた。何度も何度も読み返したので、ふと頭に浮かぶ『肉体の悪魔』はこちらの訳だ。

 映画で主演をつとめたジェラール・フィリップがそれはそれは美しくて、全体的に鮮やかな黄色で、主人公の経験する嫉妬や切望を表現しているようで、すてきな装丁だった。でも一度古い本を整理したときに手放してしまって、今でも後悔している……。古本で探そうかな〜。こんな感じの装丁(このヤフオクは終了してます)。

page.auctions.yahoo.co.jp

 

『ロミオとジュリエット』シェイクスピア(小田島雄志・訳、松岡和子・訳、宝塚歌劇団星組): 疾走する命

[Romeo and Juliet]

 このブログには本のことだけ書こうと思っているのですが、東京宝塚劇場での上演が始まったばかりの星組『ロミオとジュリエット』を観劇(&感激……)したところなので、今日は星担による星組礼賛日記になってしまいそう。

 さて、宝塚歌劇団では繰り返し上演されてきた『ロミオとジュリエット』*1。2010年からは、フランス版ロックミュージカルの『ロミオとジュリエット(Roméo et Juliette)』を上演している。作詞作曲はジェラール・プレスギュルヴィック。こちらの動画(↓)は劇中歌『Aimer』の世界各国ダイジェスト版(日本からは城田優さん&フランク莉奈さんバージョンが)。

www.youtube.com

 今回の宝塚での上演は8年ぶり5度目の上演ということで、話題を呼んだ。多くの宝塚ファンはこのニュースを受け、大いに喜んだのだが、心の中でため息をついた方も少なくはないはず。

 

大きな話題となった理由

トップスター礼真琴の出世作

 星組トップスターの礼真琴さんは、柚希礼音さんがロミオを演じた初回上演時、宝塚版で新たにつくられた「愛」という役に大抜擢された。男役ながら可憐に演じ*2、その類稀なる身体能力が話題に。

 

『ロミジュリ』をやるために生まれたようなトップコンビ

 宝塚のトップスターとしては意外なほどあどけない、まんまるな瞳に丸顔のことちゃん(礼真琴さん)。が、舞台では素晴らしい歌唱力とダンスの腕前を活かし、さまざまな役を演じ分ける。

 入団4年目にしてトップ娘役となった、なこちゃん(舞空瞳さん)。若い、けれどファンの間では「舞空プロ」と呼ばれるほど完成度の高いダンスや演技力を披露。

 どちらも若々しく、初々しい印象があるとともに優れた演じ手でもあり、トップコンビが発表されたときから多くの宝塚ファンは「これは『ロミジュリ』やるな」と思っていた。

 

2番手スターが「死」!

 この演目には「愛」と「死」という概念が登場する。どちらも一言も発しないが、巧みなダンスで観客を魅了し、登場人物らの感情を浮かび上がらせる役割を担う。通常は若手スターが演じることが多いのだが、今回はなんと2番手スターの愛月ひかるさんが「死」(役替わり公演で、ティボルトも演じている)。

 2番手の愛ちゃんが、言葉を発しない「死」!! と話題になったのだが、生で観てみたらこれが本当によかったです。愛月ひかるさんは男役になるべく生まれてきたようなスターさん。背が高く、足も手も思いっきり長く、ダイナミックなダンスが持ち味。舞台の後ろでただ立っているだけで、少し手を動かすだけで、冷気を感じるような、まさに『エリザベート』のトートのような、すばらしい「死」を演じていた。まだ宙組だったとき、『神々の土地』ではこれまた宝塚にあるまじきラスプーチン役を怪演し、拍手喝采を浴びた愛ちゃん。あのときの口を開くことなく妖気を漂わせる感じが、この役にも活きていた。

 

有沙瞳さんが乳母!

 雪組から星組に異動して以来、いわゆる「娘2」*3として活躍してきた有沙瞳さんが乳母。専科から特出してベテランが演じるような役、乳母。若すぎ、美しすぎるのでは……というファンの懸念や若干の失望(汚れ役というか、あれですから)をよそに、とんでもなくすばらしい乳母を演じていらっしゃいます。

 今まで観てきた乳母の中で一番よかった。演歌で培ったというドスの効いた声、迫力のある姿(肉襦袢巻いてる)、ユーモアのセンスももちろんながら、自分が産んだわけではないけれどジュリエットを娘として大切に育ててきたことや深い愛情がひしひしと伝わってくる。

 これまでは、最後に乳母が「パリスと結婚なさい」というところがどうも腑に落ちなくて、キャピュレット夫妻の圧に押されているのか?とか、大人って身勝手よね〜とまで思っていたけれど、みほちゃん(有沙瞳さん)の乳母を観て、「そうか……この人はジュリエットが愛しくて愛しくてたまらないんだ。ジュリエットの幸せを考えたときに、パリスしかいないと思ったんだな」と初めて感じた。

 

お衣装に賛否両論(わたしはすごくいいと思ってます)

 一新された今回のお衣装*4。これがかなり話題となりました。初演の柚希礼音さんは、革ジャンっぽい感じのお衣装で、髪も短めのストレートで、ロック味が強い印象。今回のことちゃんロミオは、より現代っぽい、ナチュラルなものが目立つ。フードがついていて、全体的にルーズなシルエット。髪もウェーブをかけた長めのスタイルで、巻毛の少年を意識しているのかなと思った。前評判は微妙でしたが、わたしはめちゃくちゃ推してます!!!! 

 ことちゃんロミオは、声のやわらかさが特徴的。若干高めの声をつくっていて、涙もろく優柔不断なところもある、ベンヴォーリオとマーキューシオの弟的存在としてのロミオを演じている。この「弟」感は特に役替わりのB公演で顕著。ことちゃん自身も、『GRAPH』5月号にて、あかさんベンヴォーリオ(綺城ひか理)&ぴーすけマーキューシオ(天華えま)について「この二人が居るからこそ仲間に入れてもらえているんだという感覚があ」ると語っている*5。そういうロミオを、的確に表現したお衣装だと思う。

 そしてなこちゃんジュリエットも。ジュリエットにしては妖艶な雰囲気漂う赤のドレスに、仮面舞踏会のお衣装(ミニスカートに編み上げブーツ)は、なこちゃんのフレッシュな持ち味を打ち消しているという意見が多々みられたように思うが、これまたイケコ先生(小池修一郎)によるジュリエットの「強さが強調された演出」*6をしっかり反映していて、わたしはすごく好き。このミュージカルではジュリエットは16歳の設定。原作を読むと特に感じられる、「大人ぶりたい」少女の意識や、誰よりも強固な意思がしっかりと表現されている。

 

It's a man's world

 これが「心の中でため息」の理由。この演目、娘役さんの出番があまりにも少ない!!!!のですよね……。男役さんはいい。ロミオにティボルト、マーキューシオにベンヴォーリオにパリスと見どころたくさん。

 娘役はトップのジュリエット以外だと、乳母、キャピュレット夫人、モンタギュー夫人と、セリフがあるのってこの3名だけでは!? この3名はどちらかというと「女役」を演じることのできるベテランの娘役さんに割り当てられるお役。歌がうまい娘役さん、新進気鋭の娘役さんがその他大勢に甘んじているのを観るとやっぱり悲しい気分になる。女性性であるとされる「愛」も男役さんが演じるし。なにしろジュリエットに友だちがいないものね。

 宝塚ファンにとって宝塚歌劇は、「現実には存在し得ない理想の男性像を男役に見る」だけではなく、「憧れの女性像を娘役に見る」ものにもなりつつある。少なくともここ10年その傾向は顕著で、たとえば過去の大ヒット作だがヒロインを男役が演じる『風と共に去りぬ』や『ベルサイユのばら』が滅多に上演されなくなっているのもそのためであろう。それよりは、娘役もちゃんと活躍する『スカーレット・ピンパーネル』や『エリザベート』が観たいのだ、わたしたちは。

 

原作を読んで 

ロミオとジュリエットの関係性

 「It's a man's world」はそのまま原作を読んだ感想でもある。今回は英語、松岡和子訳、小田島雄志訳を読みました。下卑た笑いで満ちあふれ(下ネタ満載)、マーキューシオとベンヴォーリオ(乳母もかな)の無敵感がすごい。一見コメディのよう。ヴェローナの人々がこうだからこそ、若きロミオとジュリエットが無垢であるかのように見えるけれど、決してそんなこともなく、ロミオはロミオでチャラ男っぽいところもある。

 だが、今一度読み返してみると、目につくのが若き2人の関係性だ。翻訳者の松岡和子さんは『深読みシェイクスピア』で、ロミオとジュリエットの「対等性」について語り、今までの日本語翻訳者が男性ばかりだったからか、ジュリエットを必要以上に「深窓の令嬢」化してしまったことに疑問を呈している。確かに、対等どころか、ロミオが何度も迷い涙するからこそ、ジュリエットが恋愛をリードしていく様子が際立つ。2度目の逢瀬でさっそくロミオにyou(usted / vous)ではなくthou(tu)と語りかけ、結婚の約束を引き出すのも彼女なら、「どこで、いつ式を挙げるか*7」さっさと考えるよう促すのも彼女だ。「籠の中の小鳥」ではあっても、決して「待つだけの女」ではないのである。

Romeo and Juliet

Romeo and Juliet

 

 

シェイクスピアは時間の魔術師

 『シェイクスピア 人生劇場の達人』で河合祥一郎は「シェイクスピア・マジック」として、シェイクスピアの「時間」の操り方の巧みさに触れている。

シェイクスピア 人生劇場の達人 (中公新書)

シェイクスピア 人生劇場の達人 (中公新書)

 

 それがもっとも発揮されているのが『ロミオとジュリエット』ではないかなと思うことがある。大人に翻弄される子どもたちの悲劇(といってもキャピュレット夫人だって原作ではジュリエットを14歳のときに産んだと発言しているから28歳なんだけど!)だからこそ、それぞれが人生という舞台を早足で駆けていく。

 ロミオがジュリエットに想いを馳せていると思ったらいつのまにかキャピュレット家のバルコニーの下にたどり着いている。2人が初めて一緒に過ごす夜はあっという間に明けてしまう。時間をかけて両親を説得していれば、カッとならずに落ち着いて対処していれば(マーキューシオ&ティボルト殺害)、もう少し長くロレンス神父を待っていれば……。読んでいる&観ているほうが、本や舞台に手を差し伸べ、よれた糸をまっすぐに戻すように時がもたらすちょっとしたいたずらをなかったことにしたい、疾走する命たちをその場に留めたいと願っても決して叶わない。叶わないからこそ、この物語はいつまでもうつくしい。

 

大好きなセリフ

 『冬物語』について書いたときも大好きなセリフについて書いたので、今回も……。

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 『ロミオとジュリエット』には「You kiss by th' book」、 「Was ever book containing such vile matter So fairly bound?」(どちらもジュリエット)、「This precious book of love, this unbound lover, To beautify him only lacks a cover」(キャピュレット夫人、パリスについてジュリエットに語る)など、「book」にまつわるセリフがいくつもある。中でもロミオのこちらのセリフは、心の中で繰り返しつぶやいてしまう。

Love goes toward love as schoolboys from their books; But love from love, towards school with heavy looks.

 

恋人にあう心は下校する生徒のようにうきうきし、

恋人と別れる心は登校する生徒のようにうかぬもの。(小田島雄志訳)

 

恋人に会う時は、下校する生徒のように心がはずみ、

恋人と別れる時は、登校する生徒のように心が沈む。(松岡和子訳)

 400年以上前の若者も、今の若者とまったく同じだなと思うと、かつてないほどシェイクスピアが身近に感じられませんか?

 

ライブ配信されますよ(5月23日の千秋楽)

 さて、そんな星組のロミジュリ、5月の千秋楽はライブ配信されます(楽天TVのリンクを貼りました)。おうちからでもしっかり観劇できますよ! 

tv.rakuten.co.jp

 ちなみに今ちょうど、ジャニーズの道枝さん主演の『ロミジュリ』も上演中なのですね。こちらは松岡和子訳ベースの演出とのこと。これも観たかった! もう梅芸に旅立ってしまっていた。

 それではみなさま、今週後半もhappy reading!

*1:松岡和子訳の『ロミオとジュリエット』に収録されている「戦後日本の主な『ロミオとジュリエット』上演年表」の一番最初に1950年4月に上演された星組の『ロミオとジュリエット』の名が。ロミオ=南悠子、ジュリエット=浅茅しのぶ、マーキューシオ=水原節子、乳母=須波千尋子。

*2:対する「死」は現在の宙組トップスター真風涼帆。

*3:実質的な娘役2番手。別箱でヒロインを演じたりと活躍する。

*4:宝塚ファンは、衣装のことを「お衣装」と呼びます。

*5:『GRAPH』5月号107ページ。

*6:『GRAPH』5月号108ページ。

*7:松岡和子訳。

『冬物語』 シェイクスピア(The Winter's Tale、小田島雄志・訳、松岡和子・訳)

 トーマス・C・フォスターによる『大学教授のように小説を読む方法』(矢倉尚子訳)には、「疑わしきはシェイクスピアと思え……」という章がある。 

芝居が好き、登場人物が好き、美しい言葉が好き、追い詰められてもウィットを忘れない台詞が好き。……おそらく世の作家たちも博識をひけらかして引用句を使うというよりは、読んだり聞いたりしてきた言葉が自然に出てくるのだと思う。そしてたいていの作家にとって、シェイクスピアの台詞は頭にこびりついて離れないのだろう。

大学教授のように小説を読む方法[増補新版]

大学教授のように小説を読む方法[増補新版]

 

 読んだときに、そうだよねえと深く頷いてしまった。万の心を持つというシェイクスピア。どの台詞をとっても、その年齢の、その性別の人物そのものとしか思えない。言葉が生き生きしている。400年以上前に書かれたというのに、「言葉が生き生きしている」ってどういうこと。

 上記の「疑わしきは……」とは、小説(特に西洋、だがこの限りではない)を読んでいて、「なんか意味があるんだろうけど、その意味がわからない」、「どういうテーマなのだかよくわからない」と思ったら、「シェイクスピア(あるいは聖書、あるいはギリシャ神話)であることが多いから、そう疑ってかかれ!」という話である。

 アリ・スミスの季節四部作(Seasonal Quartet)もそんな作品であった。『テンペスト』、『シンベリン』、『ペリクリーズ』というシェイクスピアのロマンス劇が作中に登場するだけではなく、なんとなくそれらの登場人物を彷彿とさせる登場人物が出てくる。ああ、これは一見英国糾弾のようにも読めるけれど、実は英国讃歌なのだと思える箇所が多く、胸が熱くなった。

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 さて! この四部作、最後のSummerが2020年夏に出版されたところ。  

Summer: A Novel (Seasonal Quartet) (English Edition)

Summer: A Novel (Seasonal Quartet) (English Edition)

  • 作者:Smith, Ali
  • 発売日: 2020/08/25
  • メディア: Kindle版
 

 一作目の『秋』は木原善彦さん訳で発売中。『冬』、『春』、『夏』も待ち遠しいですね!

秋 (新潮クレスト・ブックス)

秋 (新潮クレスト・ブックス)

  • 作者:スミス,アリ
  • 発売日: 2020/03/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 そして、Summerは『冬物語』をモチーフにした作品であるはずだ。というわけで、2020年はどっぷりと『冬物語』に浸かって過ごした。幸か不幸か、コロナの影響でさまざまな劇団による『冬物語』が配信され、自宅でも観劇を楽しむことができたのもよかった。

 ロイヤル・バレエ団にグローブ座と、色々観て本当に充実したオンライン観劇ライフを送ったのであった。嬉しい(でも2020年に映画をたった二本しか観なかったのは、このせいだとも言える)。

 

 改めて戯曲を読んで実感したこと。冒頭のレオンティーズ*1の行動が瞬間湯沸かし器的で唐突だとよく言われるけれど、わたしが今まであまりそう感じなかったのは、ひとえに演出家らの技量と、舞台上のレオンティーズたちの演技力ゆえだったのだなあ……。ハーマイオニのお腹が大きいというのも要因の一つかもしれない。もうすぐ自分の子どもが生まれるという幸せの絶頂にあったはずなのに、この一年近くずっと騙されていたのかもしれないという絶望を、舞台では、そのお腹を通して視覚的に感じ取ることができるから。『冬物語』は断然舞台で観ることの方が多かったので(蜷川シェイクスピアなど)原作を久しぶりに読み返してみて、確かに唐突かも、と思った。

 今回は原書(原文)と、小田島雄志訳と、松岡和子訳を読みました。 

 原文は、Project Gutenbergで。

The Winter's Tale by William Shakespeare - Free Ebook

 松岡和子さんは、以前も何度かブログで書いた通り蜷川シェイクスピアなどの監修に入っていらして、その経験から学んだことなどを『深読みシェイクスピア』という本にまとめている。これはめちゃくちゃ面白い。面白い上に、「あ、松岡和子訳読まなきゃ!!」という気になること必至。

深読みシェイクスピア (新潮文庫)

深読みシェイクスピア (新潮文庫)

 

 やっぱり舞台で演じてみないとわからないことってたくさんあるのだと実感する。『冬物語』の章では唐沢寿明さんによる驚くべきレオンティーズの解釈について書かれているし、何より『オセロー』でデズデモーナを演じた蒼井優さん! 翻訳者としてシェイクスピア作品に日々触れている松岡和子さんですら気づかなかった、たった一言のセリフのわずかなニュアンスに気づいてしまうのだ。そしてその気づきから、松岡和子さんも、とある場面に込められたアイロニーを初めて理解することになる。それは、蒼井優さんが舞台の上で、いや、練習の場でも、すでにデズデモーナとして生きているからこそ。あ〜すごい。本当になんてすごい女優さんなんだろう。

 

 さて……ここまで書いて、ほとんど『冬物語』の話になっていませんが、一番重要なポイントは、生まれたての赤ん坊が一世一代の恋をするようになるまでという、とても長い時の隔たりを経てようやく訪れた赦しと、友情・愛情・死者の復活を描いた作品だということだろう。

 物語の中で、幼馴染のボヘミア王、ポリクシニーズが自分の妻であるハーマイオニと密通していると思い込み、激しい嫉妬に駆られたシチリア王のレオンティーズはハーマイオニを投獄し、やがて生まれた娘の顔を見ようともしない。ポリクシニーズはどうにかボヘミアまで逃げおおせる。

 それから十六年もの時が経ち、ボヘミアにて羊飼いの娘として育てられたレオンティーズとハーマイオニの娘、パーディタは、ポリクシニーズの息子であるフロリゼルと恋に落ち、それがきっかけで断絶状態にあったレオンティーズとポリクシニーズの友情も復活する。そしてようやくハーマイオニの死を悼むようになったレオンティーズを前に、侍女ポーライナはハーマイオニを蘇らせてみせるのだ。

 現実では決してやりなおすことのできない過ちをしっかりと認識させた上で、時を巻き戻すかのように幸福を呼び戻す。とても鮮やかな魔法を目にすることができる。

 わたしが一番好きなのは、最後のレオンティーズのセリフ。

Good Paulina,
Lead us from hence, where we may leisurely
Each one demand an answer to his part
Perform'd in this wide gap of time since first
We were dissever'd: hastily lead away.

(原文)

 

ポーリーナ、案内を頼む、

むこうへ行ってから、おたがいにゆっくり尋ねたり

答えたりしよう、われわれが離ればなれになって以来、

長い長い歳月の舞台で、それぞれがどのような役を

演じてきたかを。さあ、いそいで案内してくれ。

(小田島雄志訳)

 

善良なポーライナ、

案内してくれ、どこかゆっくりできる所がいい。

お互いにいろいろと尋ねたり答えたりしたい、

私たちが離れ離れになって以来、広大な時の隔たりの中で

それぞれがどんな役を演じたかを語り合おう。すぐにも案内してくれ。

(松岡和子訳)

 ちくま文庫の松岡和子訳では、ここに注釈がついている。"this wide gap of time"という箇所だ。これが、第四幕第一場でコロス(説明役)として登場する「時」のセリフに呼応しているのだという。小田島訳は、「長い歳月」という言葉を用いて呼応させている。

 ...in the name of Time,
To use my wings. Impute it not a crime
To me or my swift passage, that I slide
O’er sixteen years, and leave the growth untried
Of that wide gap...

(原文)

 

(間違いを起こしたり解きほぐしたりする)「時」と名乗って

翼を使わせていただきます。十六年間を飛び越えて、

その長い歳月のあいだに生じたいっさいのことを

説明抜きにいたしますが、その早すぎる飛翔を、どうか

お叱りになりませぬよう、

(小田島雄志訳)

 

「時」と名乗ったこの私、ただいまから

翼を使わせていただきます。一気に飛び越す十六年、

時が大きく隔たるうちに生じたことは

説明せずにおきますが、目にも留まらぬ一足飛びを

お咎めなきよう願います。

(松岡和子訳) 

 果たして2020年のアリ・スミスは、どのような赦しと再生を描いたのだろうか? 読んで確かめるのが楽しみです。

 ではみなさま、happy reading! 

 

*1:当記事での登場人物名は、松岡訳で統一しています。

『ロシュフォールの恋人たち』は『十二夜』(シェイクスピア)から着想を得ているのか

[Twelfth Night]

コロナ禍では演劇、ミュージカル、オペラ、バレエが軒並み中止され、どうなってしまうんだろうと思っていたけれど、気を揉んでいるうちに色々と再開の運びとなり、ライブ配信も一般化し、新たな観劇の方法が確立されつつある。とはいえ、いつまた公演中止になってしまうかわからない昨今。

先日の記事にも書いたが、宝塚歌劇団・月組の『ピガール狂騒曲〜シェイクスピア原作・十二夜より〜』は11月と12月のチケットが取れたので、久しぶりに『十二夜』を読み返した。記憶の中で『お気に召すまま』とごっちゃになっている部分もあったので、いい機会となりました。

十二夜 (光文社古典新訳文庫)

十二夜 (光文社古典新訳文庫)

一番新しく出版された訳が読んでみたいという気分になり、古典新訳文庫の故・安西徹雄さん訳(↑)を。ちょっとお茶目な感じが『十二夜』にぴったりですごくよかった。

 

それで、タイトルの件。

もしかして『ロシュフォールの恋人たち』って、『十二夜』をモチーフとしているの!?(リテリングと言えるほどではない)と、ふと思ったのでブログに書いておく。

 

 

『十二夜』のあらすじ:楽しいことばかりではない喜劇

『十二夜』はきっとみなさまご存知の通り、シェイクスピアの喜劇で、やんごとなき出自の双子のきょうだいであるセバスチャン(兄)とヴァイオラ(妹)が船の難破で生き別れになってしまったところから始まる物語。

物語の中心はヴァイオラであり、見知らぬ土地(アドリア海沿岸だとされている)に辿り着き、男装をしてオーシーノ公爵に仕えるようになるところが描かれる。このオーシーノ公爵は、地元の伯爵家の女主人オリヴィアに恋をしているため、ヴァイオラは何度もオリヴィアに手紙を届ける役目を仰せつかる。

だが、あろうことかオリヴィアは男装したヴァイオラ(セザーリオと名乗る)に恋をしてしまう。オーシーノ公爵のことを愛するようになっていたヴァイオラは、男装をしている自分の状況とオーシーノへの思いに挟まれ、葛藤するようになる。

さらには、オリヴィアの館をうろちょろしているおじや道化や貴族なんかが愉快な役回りを演じて舞台に笑いを提供する。

色々と誤解が生まれるものの、最後にはヴァイオラとセバスチャンの兄妹が再びめぐりあい、自身の嘘を告白したヴァイオラはオーシーノと結ばれ、ヴァイオラそっくりの美しい美男子セバスチャンとオリヴィアも恋に落ち、ついでに道化役に徹していたトービー(オリヴィアの叔父)とさまざまないたずらの考案者マライア(オリヴィアの小間使い)まで結婚する。

最後は大団円、の喜劇なのだが、決して楽しいことばかりではないのがポイントだ。最初から最後まで自分の思いを貫けるのはヴァイオラ一人のみだし、マルヴォーリオなどは恋心のせいで散々な目に遭い、決闘など少々血生臭い展開もあり、悲しみや辛さ、苦しさもかなり盛り込まれている。

シェイクスピアが『十二夜』執筆以降は悲劇を書くようになることを考えると、否応なく忍び寄ってきた人生の苦悩を、ついに描かずにはいられなくなったのだという、どことなくあきらめにも似た思いをこの作品に感じることもある。

『十二夜』(クリスマスのお祝いが終わりを迎える1月6日を指す)というタイトルが示すように、「お祭りの終わり」、「過ぎ去っていったお祝い」のような晴々とした寂しさが余韻として残る。

 

『ロシュフォールの恋人たち』のあらすじ(?):これが人生

「お祭りの終わり」、「過ぎ去っていくfête」……それってまさに『ロシュフォールの恋人たち』じゃない!?

ロシュフォールの恋人たち(字幕版)

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  • 発売日: 2014/10/01
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夏、未来への期待、新しい朝、太陽の光を感じながら手ぶらで歩くこと、新しい歌、ちょっとした見栄、失敗を笑い飛ばすこと、自分たちのための歌、奇跡を信じること……。観るたびにワクワクして、胸がはち切れそうになる映画。

明るい気分のときに観ると天まで飛んでいけそうだと感じるし、絶望しているときに観ても勇気をもらえる。

そんな『ロシュフォール』だけれど、これは決して『歌って踊って笑える』楽しいだけの映画ではない。どうしてこうなの? どういう意味? とずっと考えていたあれこれ、『十二夜』なんだと思ったら納得できる気がしたので、あらすじに沿って「これは」と思った点を綴ってみる。

『ロシュフォール』のネタバレにもなりますが、ネタがバレたところでこの映画の面白さは1mmも変わらないし、1000%楽しめることは保証します。

 

主人公は双子

『十二夜』の主人公はヴァイオラとセバスチャン。『ロシュフォール』の主人公も双子の姉妹のソランジュとデルフィーヌ。

ソランジュを女優のフランソワーズ・ドルレアックが、そしてデルフィーヌを1歳違いの実の妹であるカトリーヌ・ドヌーヴが演じていることもあり、髪の色が赤毛とブロンドで(この映画では)異なるけれど、本当によく似ていて動きや歌声の親和性も高い。

 

お祭りの始まりから終わりまでが描かれる

『ラ・ラ・ランド』でもオマージュされていたが、この映画は町にお祭りがやってくる(船で!)ところから始まる。夏の移動式のお祭りが町にやってきて、一通りどんちゃん騒ぎが終わり、町から去っていくまでのお話。季節は違えど、クリスマスイブから1月6日までの「十二夜」そのもの。 

ラ・ラ・ランド(字幕版)

ラ・ラ・ランド(字幕版)

  • 発売日: 2017/08/02
  • メディア: Prime Video
 

 

決闘(的なもの)あり

『十二夜』では決闘だ!となり、アンドルーがセザーリオ(男装したヴァイオラ)に決闘を申し込む。

『ロシュフォール』ではデルフィーヌから別れを告げられた恋人のギョームが、結構唐突にピストルを持ち出すシーンが。これはアートの一環ではあるものの、まるでギョームと「例の絵描き」との決闘のようにも見える。

 

人違いの恋

ダム氏って、最初はちょっとソランジュに好意を抱いているよね!? もちろんそれはかつての恋人イヴォンヌ(ソランジュの母)の面影があるからなのだが、この人違いの恋と、その後すっきりさっぱりと方向転換する様がやたらとオーシーヌを想起させる。

 

謎のユーモア

ダムという苗字が嫌、「マダム・ダム」と呼ばれるのが嫌(「越久さんの奥さん」なんて呼ばれるのは嫌!って感じ?)というおかしな理由でダム氏と結婚しなかったイヴォンヌって……喜劇的な要素がぶっ込まれる。

 

道化役に徹するエチエンヌとビル

エチエンヌ役はジョージ・チャキリス、ビル役はグローバー・デール。バキバキのキメキメダンスを踊るというのに、この格好よく若い盛りの2人はあくまで道化役。

 

大切な人に嘘をつく

しかもイヴォンヌは、「大金持ちの男性にプロポーズされてメキシコに引っ越して行った」なんて不要な嘘をついている。それによってイヴォンヌとダム氏が結ばれるのには必要以上の時間がかかることになる。自分の性別を偽ってしまったが故に、オーシーヌとなかなか結ばれないヴァイオラのように。

 

やたらとフォーカスされる下着(コンビネゾン)

これが一番あれ!って思ったポイントかもしれない。やたらとソランジュがcombinaison、combinaison(下着)で笑いを取ってくるのだが、これってもしや『十二夜』といえばの、黄色い靴下と十字の靴下留めを暗示してる? 考えすぎなの?

(画像はPinterestより)

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恐ろしい殺人事件

明るい映画なのに、ただただ人生の美しさを映し出したような映画なのに、ダークな部分にも焦点が当たる(光と影は紙一重)。

著名なダンサー「ローラ・ローラ」が殺されるのだ。犯人はなんと、イヴォンヌが営むカフェの常連であるおじいさん。ずっと恋していたのに冷たくあしらわれ、カッとなって殺したということになっている。これも相当「えっ!?」ポイントである。この明るく陽気な映画に、そのエピソードいる?

しかも殺される女性の名前が「ローラ」であることにギョッとする。なぜなら、この映画の監督と脚本を担当したジャック・ドゥミの監督デビュー作はその名も『ローラ』。 

ローラ ジャック・ドゥミ DVD HDマスター

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『シェルブールの雨傘』にも、過去の恋人として名前だけ登場するローラ。そのローラを「切り刻んで」という恐ろしい表現で登場させるなんて、何事。このシーンは、まるで喜劇から悲劇へと移行していったシェイクスピアのような、ドゥミ監督による過去との決別とある種の決心を感じさせる。

その上、デルフィーヌはバレリーナ志望。ローラの死は、今は華やかで美しく、希望で満ち溢れているデルフィーヌの行く末を暗示しているかのようにも思えて、人生の長さと残酷さに思いを馳せてしまう。

 

カップルが3組誕生

ソランジュは町にやってきた著名な作曲家アンディと結ばれ、母親のイヴォンヌはかつての恋人ダム氏と再会、デルフィーヌは最後の最後で水兵のマクサンヌと出会うことが示唆される。

 

「ヌーヴェルヴァーグ」だから、では片付けられない違和感

こんな感じで、この映画には「それいる?」みたいな不思議なエピソードがいくつも登場する。

ずっと「これはハリウッド映画じゃないから、フランス映画だから」、「ヌーヴェルヴァーグだから」だと一生懸命自分に言い聞かせていたのだが、ヌーヴェルヴァーグだからってジャック・ドゥミの他の映画には微塵も感じられない不思議な違和感を感じていた。

今回『十二夜』を読み返し、喜劇のはずなのに悲しく辛いエピソードや血生臭いエピソードがやたらと心に残ることを再認識し、これこそがシェイクスピア、そしてジャック・ドゥミが描きたかったものなのかなと、ふと思ったのだった。つまり、苦楽は表裏一体、人生には笑顔もあれば涙もあり、すべてひっくるめて人間でありアートなのだ、と。

『ロシュフォール』の大ファンであるわたしがそう思っているだけであって、確証はないけれど。

フランソワーズ・ドルレアックの死

喜劇なのに悲しくもある、人生そのもののような『十二夜』と『ロシュフォールの恋人たち』。

あまりにも明るく燦々とした太陽の光に満ち溢れている『ロシュフォール』だが、観終わってから少し寂しくなるのはきっと、主人公のソランジュを演じたフランソワーズ・ドルレアックが、この映画の公開年である1967年に25歳という若さでこの世を去っている(交通事故)こともあるだろう。

妹のカトリーヌ・ドヌーヴとは最初で最後の共演となった。

映画の中の彼女は光り輝いている。指の先まで優雅で、髪の一本一本まで美しい。笑ったり踊ったり歌ったり、タバコを吸ったり、カバンを落としたりしているフランソワーズを観ていると、これは人生最高の輝きであるとともに、人生最後の輝きだったのだと思い、なんともいえない気持ちになる。

フランソワーズとカトリーヌ・ドヌーヴはとても仲がいい姉妹だったようで、確かインタビューで(『ロシュフォール』のことを)「辛くて観ることができない」みたいに言っているのを見た記憶がある。そんな悲しい事実もあいまって、まるで『十二夜』だと思ったのだ。

 

あまりに好きすぎるから、長々と書いてしまった。全然映画を観ることができなかった今年だって、『ロシュフォール』は観ました。

2021年どのくらい映画を観ることができるかまだわからないけれど、『ロシュフォール』だけは何度も観るでしょう。

人生の光が、希望が、若さが、『ロシュフォール』のようなお祭りと夏が、去ってしまったときはどうすればいいの? その答えだって、『ロシュフォール』には、ちゃんと描かれている。

Quand l'été a disparu
Quand le temps s'en est allé

......

Il faut aimer

 

Aimer la vie, aimer les fleurs
Aimer les rires et les pleurs
Aimer le jour, aimer la nuit
Aimer le soleil et la pluie
Aimer l'hiver, aimer le vent
Aimer les villes et les champs
Aimer la mer, aimer le feu
Aimer la terre pour être heureux

人生を愛そう。

花を愛し、笑顔も涙も愛し、昼を愛し、夜も愛し、太陽と雨を愛し、冬を愛し、風も愛し、都会も田舎も、海と炎も愛し、大地を愛そう。

 

愛が消え去ってしまっても大丈夫。また愛することから始めればいい。

愛があれば毎日は夏になる。「最高の夏」になる。

 

『虹をつかむ男』 ジェイムズ・サーバー

[The Secret Life of Walter Mitty and Other Stories]

 完全にジャケ買い。サーバー自身によるイラストがかわいい。表題作が『LIFE!』として数年前に映画化されていた短編集だが、この映画は観ていない。 

虹をつかむ男 (ハヤカワepi文庫)

虹をつかむ男 (ハヤカワepi文庫)

 

 サーバーは1894年にオハイオ州で生まれ、国務省の暗号部員をつとめたのち、『ニューヨーカー』誌などで編集者&寄稿家(短編小説とイラスト)として活躍した人物だ。

 まさに『ニューヨーカー』という感じが、その文章からもイラストからも漂っていて、例えば電車に乗っている間や歯医者さんで順番待ちをしている間にさっと読めて、くすりと笑えるような短編ばかりだった。

 まず、本人による序文からして笑える。サーバーの生い立ちに関してどうのこうのと、割とどうでもいい話を大真面目に、知り合いの振りなんぞして滔々と語っている。

 収録されているのは25編の短編小説。

 虹をつかむ男、世界最大の英雄、空の歩道、カフスボタンのなぞ、ブルール氏異聞、マクベス殺人事件、大衝突、142列車の女、ツグミの巣ごもり、妻を処分する男、クイズあそび、ビドウェル氏の私生活、愛犬物語、機械に弱い男、決闘、人間のはいる箱、寝台さわぎ、ダム決壊の日、オバケの出た夜、虫のしらせ、訣別、ウィルマおばさんの感情、ホテル・メトロポール午前二時、一種の天才、本箱の上の女性

 特に面白かったのは以下のとおり。

 

「虹をつかむ男」The Secret Life of Walter Mitty

 ウォルター・ミティは空想癖のある男。妻と車で出かけているだけなのに、頭の中では海軍飛行艇を操縦してみたり、大手術を任された医師になってみたり……。冴えない中年男の止まらない妄想がなんともいえない。

 

「空の歩道」The Curb in the Sky

 こういった、長年連れ添った夫婦間のいざこざというかちょっとしたやり合いを描いた作品が多いのはやはり掲載媒体ゆえかな。

 夫の言うことにとにかく口を挟み訂正しまくる夫人の話。なんとなく男と女のカップルってこういうものだよなという感じがある。

 

「ブルール氏異聞」The Remarkable Case of Mr. Bruhl

 ギャングにそっくりだと言われ、実際に敵対するギャング団から命を狙われそうになったとある富裕層の男性が、極度の不安からいつの間にやらギャングのような扮装をして、ギャングのような喋り方をし始める……。ありそうでなさそうな、笑える話。

 

「マクベス殺人事件」The Macbeth Murder Mystery 

 読書好きにはたまらない逸品。イングランドの湖畔地方で、同じホテルに泊まっていたアメリカ人女性と知り合いになる。すると彼女が突然こんな話を始める。「ペンギンブックスと一緒に並んでたから、推理小説だと思って誤ってシェイクスピアを買ってしまった」と。アガサ・クリスティーを読みたくてうずうずしていた女性は、なんと『マクベス』を推理小説として読み始めるのだ!

マクベスが王様を殺したなんて全然考えられないわ。それからマクベスのおかみさんがグルになってるとも思えないわね……[略]……あやしいのにかぎって絶対シロなのよ

 なんて言って。彼女も彼女なら、のりのりになって付き合う語り手も語り手だ。でも面白いな〜。こういう話。

 

「妻を処分する男」Mr. Preble Gets Rid of His Wife

 秘書と駆け落ちしたいがために、いつも口うるさい妻を処分してしまおうと決意した男。地下室に葬ろうと計画するのだが、妻の尻に敷かれた状態の彼は計画の一から十まで、あろうことか妻に仕切られっぱなしになり……。

 サーバーお得意の夫婦もの、ここに極まれりといった感がある。

 

「愛犬物語」Josephine Has Her Day

 スコッチテリアが飼いたかったのに、なぜかメスのブルテリアを飼ってしまった夫婦の話。この子犬がぐったりしているので「出だしは良かったけど最後は落ちぶれた」ナポレオンの妻からジョセフィンなんて名付けちゃって。あまり理想とかけ離れているので、他の人に譲って自分たちはスコッチテリアを飼おうと決意するのだが……。

 夫婦どちらも、それぞれジョセフィンに愛着を感じてしまっていることに気づくあたりが楽しめる作品。

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 サーバーの短編集はかなり色々出版されていて、光文社古典新訳文庫にもあるのを見つけた。こちらも読みたい。

傍迷惑な人々―サーバー短篇集 (光文社古典新訳文庫)

傍迷惑な人々―サーバー短篇集 (光文社古典新訳文庫)

 

 犬好きとしては、ハヤカワ文庫の犬特集も気になる。

サーバーのイヌ・いぬ・犬 (ハヤカワ文庫 NF (115))

サーバーのイヌ・いぬ・犬 (ハヤカワ文庫 NF (115))

 

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『第三の男』グレアム・グリーン

[The Third Man]

例えば飛行機や新幹線の移動、カフェでの時間つぶし、あるいは予定のない土曜日。

ぱっと数時間で読了できて、ストーリーも面白く、かつ文学的な小説が読みたいと思う日がある。変に感情移入してしまい泣いたり笑ったりしたくない、ただただ小説そのものを楽しみたいという日が。

こういう時には、グレアム・グリーンの『第三の男』はいかがですか?

文庫本にしてほんの200ページ程度、20世紀を代表する大作家と謳われるグリーンが書いたミステリー小説。同題の映画の脚本を頼まれたグリーンが、「まず小説にして書いてみないと脚本を書けない」と作り上げた作品である。

舞台は第二次世界大戦後、米・英・仏・ソの四カ国に共同管理されていた頃のウィーンというのが、プロデューサーによって決められていた。そして、グリーンの頭の中には「街を歩くハリーを見かけた。でも私は、ハリーの葬式に出席したばかりだった……」というふうな文章が長年寝かせてあった。 

第三の男 (ハヤカワepi文庫)

第三の男 (ハヤカワepi文庫)

 

二杯飲むと、ロロ・マーティンズの心はいつも女のほうへ向くーー漠然と、センチメンタルに、ロマンチックに、異性という一般概念で考える。三杯目がすむと、狙いを定めようとして急降下する操縦士のように、ものになりそうな一人の女に焦点を絞ろうとする。もしクーラーが三杯目をすすめなかったら、おそらく彼はそれほどすぐにはアンナ・シュミットの家には行かなかったろう。

「三」というのはなんだか不思議な数字だ。

「三度目の正直」、「三年目の浮気」、「二度あることは三度ある」、"Three's a Crowd"……「三」という数字には、とりかえしのつかない何かが含まれている気がする。

タイトルにもなっている「第三の男」というのは、ハリー・ライムという男性が事故で死んだとされる現場にいた謎の男だ。当初ハリーの友人二人と運転手以外は誰も現場にいなかったとされていたが、実はもう一人いたということが明かされる。

ハリーが悪事を働いて、警察に追われていたことを知った幼い頃からの友人であり作家のロロ・マーティンズは、ハリーが何者かに消されたのではないかと疑い、一人ウィーンの街で調査を始める。

短い物語なのだけれど、ここにはグリーンらしい描写がいくつも現れ、とにかく読ませる。幼い頃からの友達への憧れ、喪失の悲しみ、どんよりとしたウィーンの街並み、欲望、秘密、同情。

 

映画のこと

ちなみに映画はまだ見たことがなくて、時間がある時に是非見たいなと思っている。登場人物の国籍や特徴、結末のちょっとしたエピソードなんかも違うらしいところが、監督のキャロル・リードの腕の見せ所だろうか。原作の序文からはグリーンがリードに並々ならぬ信頼を寄せていることもうかがえる。ちなみに、村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』でもこの映画が言及されていた覚えがある。

 

これも読みたい

『第三の男』とくれば、第三の女も。

西村しのぶによる少女漫画はその名も『サードガール』。吉本ばななさんの愛読書でもあるとエッセイで読んだ記憶がある。舞台は1980年代、バブル真っ只中の神戸で、主人公は夜梨子という女の子。ある時街で出会った国公立大の工学部に通う涼に、その美貌の恋人かつ同級生の美也を巻き込み、恋愛とは何か? 嫉妬とは何か? 自立とは何か? を見せてくれるような作品。恋愛は結構な修羅場もあるけれど登場人物たちが皆大らかなのでそれほど大事にはならず、楽しめる。

この物語でいう「サードガール=第三の女」というのは、涼にとって本命(美也)でも浮気相手でもなく、天真爛漫に彼を慕い楽しくお茶する相手である夜梨子のことを意味しているのかと思うのだが、このタイトルにさほど意味はないのだとか。 

サードガール 1 (キングシリーズ)

サードガール 1 (キングシリーズ)

 

同じくグレアム・グリーンによる『情事の終り』のレビューはこちらから。

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『カラーパープル』 アリス・ウォーカー

[The Color Purple]

1985年にスピルバーグによって映画化された『カラーパープル』は2005年ブロードウェイミュージカルにもなった。そしてなんと、このミュージカル版を映画化するというニュースが昨年末に発表された。

プロデューサーは1985年の映画を手がけたスティーブン・スピルバーグに、ミュージカルのプロデュースを手がけたオプラ・ウィンフリー(1985年の映画にも出演している)とクインシー・ジョーンズ(1985年の映画の音楽担当)!

これは今から楽しみですね。

pitchfork.com

というわけで久しぶりに原作を引っ張り出し、映画も観てみた。

この1986年出版の集英社文庫、現在までずっと増刷を重ねているんですね。私が持っているのは2008年版で第39刷。すごいなあ。

カラーパープル (集英社文庫)

カラーパープル (集英社文庫)

 

「フェミニズム文学って読みづらい?」とか、「黒人女性がとにかく虐げられる救いようのない話」みたいなイメージを持って敬遠している方も多いかもしれない。

でもこの作品の一番の特徴は、かなりのページターナーだということ。この増刷されっぷりからも読み取れる。

 

主人公のセリーは20歳。父親からの性的虐待に耐え、体を張って妹のネッティーを守る日々を過ごしていた。ある日美しいネッティーにミスター**(セリーは彼の名前すら知らない)が求婚するのだが、父親は代わりにセリーを差し出す。

こうしてたくさんの子供を抱えるミスター**に嫁いだセリーは彼から暴力を受けながらも、ミスター**の子供や子供たちの妻、そしてミスター**の愛人シャグと絆を育み、愛を知ることになる。

自分に与えられた運命を淡々と生きているセリーだが、ある日、生き別れたのちにアフリカへ渡ったネッティーからの手紙を読んで……。

 

ストーリーの半分以上は手紙という形でのセリーとネッティーのやりとりで成り立っている。いや、やりとりというのは正しくない。なぜならお互い、手紙が届いていないかもしれないことを承知で、相手からの返事がない状況下で伝えたいことをただ綴っているだけだからだ。

結婚に縛られることなく、宗教を通じてアフリカへ行くことになったネッティーは、自身が学んだことをセリーに書き綴る。

ニューヨークという大都会にあるハーレムという自由な町のこと、奴隷としてアメリカ合衆国にやってきた自分たちの祖先の歴史、アフリカで感じた女性の抑圧。

 オリンカの人々は、女の子には教育の必要がないと考えています。母親の一人に、なぜそう考えるのかと一度聞いたことがあります。彼女はこう答えました。女の子は、何の価値もない存在だけど、夫がいてはじめて彼女は価値のあるものになると。

 彼女は何になるのです? と私は聞きました。

 もちろん、夫の子供たちの母親になるのですよ、と彼女は答えました。

 でも、私は誰の子供の母親でもありません、それでも私は私なりの価値があります、と私は言いました。

オリンカの人々の考え方は、当時のアメリカでの黒人に対する白人の考え方と同じである。黒人に勉強させる必要はない、知恵をつける必要はない。「黒人」が「女」に変わっただけ。

そして、これはセリーに対する父親やミスター**の考えと同様だ。

セリーが仕方なく受け入れていた運命を、周りの女たちは強い意思の力で跳ね飛ばしている。シャグは自由な恋愛を楽しみながら自分の仕事を持ち、ソフィアは夫へ従うことをよしとしない。そんな彼女たちを見つめ、ネッティーからの手紙と照らし合わせること、疑問を抱くことで、セリーも徐々に「目覚め」ていくのだ。

 

そして、タイトルともなっている「カラーパープル」とは一体何のことなのか?

作中ではこのように登場する。セリーとシャグの会話だ。

 あんた、神はお世辞が好きって言ってるのかい。

 ううん、お世辞じゃなくて、いいものを分かち合うってことをしたいんじゃないの? あんたが野原を歩いていて、むらさきいろのそばを通りすぎて、それに気づきさえしなかったら、神は本気で腹を立てると思うよ。

神が与えたもうた美、自然の美、喜びや愛といった幸福な感情、それら全てをひっくるめて「むらさきいろ」と呼んでいるのだ。 

 

近年、『オリシャ戦記』や『奇跡の大地』、『地下鉄道』といった、同じように奴隷制やアフリカとアメリカの黒人女性を描いた作品が話題となっている。どれもユニークで特定ジャンルに縛られない作品であるとともに、『カラーパープル』やトニ・モリスンの作品から脈々と息づくスピリットを感じる。 

奇跡の大地

奇跡の大地

 
地下鉄道

地下鉄道

 

 

映画もすごくいいんです。些細なエピソードもしっかりと拾い上げていて、ウーピー・ゴールドバーグの演技も光るし、今見ても全く色あせていない。1900年代を舞台にした話だけれど、時代を超えた普遍性がある。新しく製作される映画を観るのも本当に楽しみ!

カラーパープル(字幕版)

カラーパープル(字幕版)

 

『ヴェネツィアに死す』トーマス・マン: 美しいものを見ることには価値がある

[Der Tod in Venedig]

 「美しいものを見つめることは、魂に作用する」と言ったのはミケランジェロ。

 「美しいものを見ることには価値がある」と言ったのは上田久美子先生(宝塚歌劇団)。

 『ヴェネツィアに死す』(もしくは『ヴェニスに死す』)というタイトルを聞いただけで、思い浮かぶ言葉だ。 

ヴェネツィアに死す (光文社古典新訳文庫)

ヴェネツィアに死す (光文社古典新訳文庫)

 

 主人公はグスタフ・フォン・アッシェンバッハ。ミュンヘンに住む老作家。名声を得て、周りから尊敬されている男性である。彼を形作るものは「理性」と「若い時からの自制心」、「堅苦しく冷静な几帳面さ」。好きな言葉は「堅忍不抜」。若い頃から自分を律して生きてきた。

彼は、少なくとも世界を回る交通の利便を好きに使える資金を得てからは、旅行というものを、気が進まなくても時々はしなければならない衛生上の対策くらいに見なしていた……[略]……ヨーロッパを離れようなどとは思ってみたこともなかった。

 そんな彼が五月の初め、ふと旅に出たいという強い欲求にかられる。自分の体力的、精神的な衰えを感じ、旅行することで何かが変わるのではないかと期待したからだ。そして月末にやっと重い腰を上げ、イタリアへと旅立つ。

 アッシェンバッハが目的地に選んだのは水の都、ヴェネツィア。シロッコが吹いて高潮が起こると広場が水没してしまう都市。仮面・仮装カーニヴァルで知られた街……というのが行く末を暗示しているようで、不穏な雰囲気を醸し出す。おまけに船に乗り合わせた陽気な若者たちを見ていると、おかしなことに気づく。

明るい黄色の流行最先端のサマースーツを着用し、赤いネクタイを締め、大胆に反り返ったパナマ帽をかぶり、甲高い声をはり上げて、陽気さという点で他の誰よりも目立つ男がいた。しかしアッシェンバッハは……[略]……この若者が偽物であることに気づいて、一種の驚愕を感じた。年寄りであった。疑う余地がなかった。しわが目と口を取りまいていた。頬の鈍い赤色は化粧だった。

 まるで自分も若者であるかのように振る舞う老人を見て、アッシェンバッハは嫌悪を感じる。そして「夢でも見ているように馴染んだ世界が消え、歪んで奇妙なものに変わり始めているような気がした」。

 死と破滅への旅の始まり始まり、である。

 

 上記の描写もそうだが、ヴェネツィアに着いてから出会うポーランド貴族の美少年タッジオについてもその外見や服装に関して、事細かに書き記されている。読んでいるだけでアッシェンバッハのねっとりとした視線を感じられるようだ。

髪の長いおそらく十四歳くらいの少年。この少年が完璧に美しいことに気づいて愕然とした。うち解けないその顔は青白く優美で、蜂蜜色の髪の毛に囲まれ、鼻筋は真っ直ぐ下に通って、口は愛らしく、優しく神々しいまでに生真面目な表情を浮かべ、もっとも高貴な時代のギリシア彫刻を思わせた。

 セーラー服、赤い蝶結びのリボンのついたストライプのリンネルの服、青と白の水着……。もう舐め回すようにじろじろ見ている。タッジオも当然この視線に気がつき、そのうち彼を付け回すようになるアッシェンバッハのほうを何度も振り返るようになるのだが、もう……お気の毒さまとしか言いようがない。育ちがいいので嫌な顔をしたり、罵詈雑言を浴びせたりということは決してしないタッジオだが、これほどまでに見つめられ付け回されたら、恐怖と嫌悪を感じていたことは間違いないだろう。これはハラスメントですよ。本当に気の毒になる。

 ちなみにこのタッジオにはモデルがいて、作者のマンが実際にヴェネツィアで出会ったポーランド貴族の少年(当時11歳)で、名前もほとんど同じ(この少年男爵は当時ヴワージオとかアージオとか呼ばれていたらしい)、ヤスというあだ名の年上の男友達がいたというのも同じで、映画に出演したビョルン・アンドレセンのような美少年だったという。当時30代のマンにじろじろ見つめられていることにも気づいていたし、本作品のポーランド語訳が出版された時にモデルは自分だと分かったらしいが、マンが死去するまでそのことを公言しなかった。うーん、さぞかし気持ち悪かったでしょうね……。

ベニスに死す (字幕版)
 

 

 一方のアッシェンバッハはタッジオの中に、『オデュッセイア』に登場するパイケーエスの子供などといったギリシア神話の美男子を見ている。見ているだけで幸福になれるかのような神々しい美。それは新たな作品を書き上げるインスピレーション源となるのだが、同時にアッシェンバッハの身を滅ぼすことにもなる。タッジオを心ゆくまで見つめていたいがために、コレラが流行して周りの旅行者はほとんどがヴェネツィアを引き上げたというのに街に残ることを決意し、挙げ句の果てに失った若さを取り戻そうと化粧をしたり奇天烈な服を着たりと、おかしな真似を始めるのだから。

 街も老人も滅びようとする中で、より一層タッジオの美しさが際立つのだけれど、タッジオ自身も何かしらの病気を抱えているであろう(顔が青白く、長くは生きられないように見える)ことから、この美少年が死神のようにも思えてくる。

 タッジオに対するアッシェンバッハの感情が恋というよりも憧れ、畏敬であることからも、ますますアッシェンバッハを死へと導く存在のように感じられるのだ。

 そういうトート閣下に魅入られたエリザベート、じゃなかった、アッシェンバッハという若干無理矢理な解釈で読み進めるしか、私自身の内側に沸き起こってくるおぞましいという感情に打ち勝つ方法はなかった。

 もう少し年を重ねたら、また違う読み方ができるだろうか。

 

On The Come Up / アンジー・トーマス: 『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』作者による待望の第2作目

(オン・ザ・カムアップ)

 去年はYAをたくさん読んだけれど、ダントツで面白かったのがアメリカにおける黒人差別とともにゲットーで生まれ育った少女の精神的成長を描いた『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』だった。

 ともすれば重くなりがちなトピックスを、90年代のブラックカルチャーやティーンエイジャーの恋愛を織り交ぜることで、問題提起しながらもフィクションとして面白く、あらゆる年代に訴求できる作品となっていたので、これがアンジー・トーマスのデビュー作ということに驚いた。

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 映画化も早かった。

ヘイト・ユー・ギブ (字幕版)
 

 

 そんな彼女の待望の2作目がこちら、On The Come Up。 2019年に出版されるYA作品の目玉の1つであることは間違いない。

On The Come Up

On The Come Up

 

 デビュー作があまりに素晴らしかったので、2作目を読むときはどうしても「お手並み拝見」という姿勢になってしまいがちである。18歳で『悲しみよこんにちは』を書き上げたサガンが、「私の2作目を、みんなが機関銃を持って待ち構えてるのは知ってるわ」みたいなことを言っていたと訳者の朝吹登水子さんによるあとがきで読んだことを今でも覚えているが、なんとなくそんな感じ。

 でもそんな心配は無用だった。

 

 舞台となっているのは『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』と同じ、the Gardenというゲットーなneighborhood。前作では主人公スターの幼馴染が白人の警察官に撃たれて死亡すると言う事件が話の中心になっていたが、本作でもその事件は何度か言及されるので、ほぼ同じ時代が舞台になっているようだ。スターの方が本作の登場人物たちより少し年上かな? くらい。

 

 主人公のブリアナ(ブリー、Brianna)はミッドタウンにあるアートスクールに通う高校生。父親のロー(Law)はthe Gardenの伝説的なラッパーで、ブリーがまだ幼い頃にギャングに襲撃され死亡した。母親のジェイ(Jayda)はそのショックから麻薬中毒となったが、現在は更生している。教会で働いていたけれどクビになってしまい現在は求職活動中。

 ブリーは幼い頃から叔母のプー(Pooh)に様々なヒップホップを聴かされて育った影響もあり、音楽が大好きでラッパーになることを夢見ている。そんなある日、夢だったラップバトルに出場できることになり、そこで作り上げたラップが大喝采を浴びる。

 会場でブリーに目をつけたのが、ローのマネージャーをしていたスプリーム(Supreme)。スプリームは、ラップバトルばかりしていてもメジャーにはなれない、曲を作って自分にマネジメントを任せろとブリーを口説く。

 ちょうどその頃、ブリーの通うアートスクールでちょっとした事件が起きる。生徒たちは皆、朝セキュリティチェックを受けて高校の建物に入っていくのだが、セキュリティガードたちはthe Gardenなどからやってくるヒスパニックや黒人の生徒ばかりを狙ってボディチェックしているということが前々から話題になっていた。ある日、ブリーはカバンの検査をされそうになり、それを拒んだことからセキュリティガードに羽交い締めにされてしまう。この黒人差別ともいえる状況に腹を立てた彼女は、そのことや「hood」としてのthe Gardenを歌ったラップを作り、それをスプリームに渡す。

 この曲は暴力的な歌詞が賛否両論を呼び、ブリーは一躍the Gardenのセレブリティとなるのだが……。

 

 と、『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』と同じく不当な人種差別や家族の絆を描きつつも、テーマとしてはより盛りだくさんなイメージを受ける。少女の将来の夢や初めての恋愛、ラップという音楽の世界における女性蔑視やショービジネスの不当性をしっかり描いている。

 何より愛する家族がお金がないことで苦しんでいる中で、彼らを助けるために自分の信念にはそぐわないことをするべきか否かという葛藤が読ませる。

 白人だらけの学校に通い、ボーイフレンドも白人でthe Gardenに住んでいながらも"suburb"的な要素の強かったスターとは違い、ブリーは生まれも育ちもthe Garden。前作にも登場したギャングたちもブリーにとってはより身近な存在で、父親が死んだ原因だったり、叔母がとあるグループのメンバーだったりする。

 それは語り方にも顕著に見受けられる。『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』よりもはるかにくだけた、というか、黒人の女の子らしい話し方をしている、というか。「17歳の女の子のリアル」を曝け出すような文章に惹かれる。

 そして、2つの世界を行ったり来たりしていることで自身のアイデンティティに悩んでいたスターに比べるとブリーは若干幼く、どちらかというと閉じこもりがちで激昂しがちな性格だ。

 

 『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ』も翻訳がかなり難しかったのではないかなと思うけれど、そして素晴らしい訳だったのだけれど、本作はラップ部分が大きい要になっていることもあり、さらに大変そう。でも本当に面白く、日本のティーンも楽しく読むと思うので、ぜひ日本語訳を出版していただきたいYA作品の1つだ。

My Sister, the Serial Killer / オインカン・ブレイスウェイト(Oyinkan Braithwaite)

(マイ・シスター、シリアルキラー)

 ジャケ&タイトル買いしてしまった一冊。

My Sister, the Serial Killer

My Sister, the Serial Killer

 

 作者のOyinkan Braithwaite(オインカーン・ブレイスウェイト)はキングストン大学の創作学科を卒業後、フリーランスのエディター兼ライターとして働いていたということで、これが初めての長編小説。一章一章が短く印象的なタイトルがついていることもあり("Bleach"とか"Instagram"とか)、するすると読めてしまう。

 作者自身が暮らしているナイジェリアのラゴスが舞台である。

 主人公のKoredeはラゴスの病院で働く看護師。

 彼女にはAyoolaという絶世の美貌を誇る妹がいる。似ても似つかないので、「本当に姉妹?」と周りから聞かれる始末。

 何しろKoredeが真っ黒な肌なのにAyoolaはキャラメル色、Koredeの棒のようなガリガリ体型とは違ってAyoolaは背が低いものの女性らしい丸みを帯びていて、目は潤み、唇は美しく膨れている。歩いている人が皆振り返るような美人なのだ。

 ところがタイトルの通り、Ayoolaは「シリアルキラー」である。Koredeが調べたところ、「シリアルキラー」の定義とは「3人以上を殺害している」ということで、Ayoolaは楽々とこのdescriptionに当てはまるのだ。1ページ目から

Korede, I killed him.

と3人目の殺害をやってのけてくれる。付き合う男を片っ端から殺してしまうような女性、それがAyoola。何が彼女を殺人に追いやるのか、KoredeがどうしてAyoolaに反発を覚えながらも、彼女が犯罪を犯した時は必ず窮地から救い出すのか、Ayoolaは最終的に罪に問われ罰せられるのか。

 すべては最後の最後までお楽しみ。

 

 かなり軽い調子でユーモアを交えて書かれていることもあり、特に殺人を犯したAyoolaの態度はまるで『シカゴ』のよう。

 恋人を殺害したのに、その数日後には別の男性とのデートを再開したり、「行方不明」のはずの恋人を心配するInstagram投稿をしたすぐ後に、もらった花の写真をアップしようとしたりと、飄々としているAyoolaの描写を読んでいると、頭の中でロキシー・ハートが"who says that murder's not an art?"と歌い出してしまう。

 美人で、ちやほやされて生きてきただけにAyoolaには常識が欠如している部分があり、Koredeはそれが露呈しないように注意を払い続けなければいけない。読者も一緒にハラハラさせられる。


Chicago - Roxie (the Name on Everyone's Lips)

 

 ところが、ある日Koredeが勤務する病院にやってきたAyoolaを見た医師Tadeが彼女に一目惚れしてしまう。

 Koredeは彼に片思いしていたのでショックを受けるとともに、彼の身を案ずるようになるのだが……。

 混沌としたラゴスの描写や歪んだ権力のあり方が心に残るとともに、現代においても家父長制に抑圧される女性たちの人生に疑問を投げかけている物語だった。なのだけれど、そういう物語なのだ、ということがラスト十数ページにならないと分からないところが、この小説のミソでもある。

 映画化も決定しているそうで、ぜひ見てみたい。