トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

アントニオ・タブッキの『レクイエム』とフェルナンド・ペソアの『ポルトガルの海』: 7月最後の日曜日には、この本を読もう

[Requiem] [Mar Portuguez]

 7月が来るといつも読み返したくなる、タブッキの『レクイエム』。なぜかタブッキの作品は全て夏に読むのにぴったりな気がするのだけれど、その中でも特にこの小説は夏にこそ読みたい。ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアを心底敬愛し、研究しつくしたタブッキが、ポルトガル語で書き上げた「世にもやさしい物語」である。

レクイエム (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

レクイエム (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

 

 舞台は1932年7月30日、7月最後の日曜日

 イタリア人の「わたし」は、リスボンで二十世紀最高の詩人と12時に待ち合わせをする。さんさんと照りつける熱い日差し。昼の12時を過ぎても詩人は現れないのだが、その代わりに様々な人と出会う。中には友人のタデウシュや父など、亡くなった人も多く含まれている。出会うのは人だけではない。若い頃暮らしていた懐かしい部屋に、さよならを言う機会にも恵まれる。物語の最後、真夜中には詩人もようやく現れて……。

 この世を去った人々にずっと聞きたかったことを質問して、語らい、最後の別れを告げる。その過程は優しく切なく、まさに鎮魂歌(レクイエム)そのもの。

今日は七月最後の日曜日ですね、足の悪い宝くじ売りが言った。町はからっぽ、木陰にいても四十度はある。記憶のなかにしか存在しないひとに会うのには申し分のない一日だと思いますよ。

 なんて、「わたし」は宝くじ売りに話しかけられるのだが、真夏のうだるような暑さの中でこそ死んだ人と巡り会えるなんて、日本のお盆と重なるところがあると思いませんか? この暑さの中でこそ、時空が歪み、この世を去った恋しい人々と巡り会うという奇跡が現実味を帯びてくるような。

 生と死、そして夏をテーマにした小説をいくつも書いているよしもとばななの作品が好きな人は、きっと好きだと思う。ちなみに、よしもとばななの作品はイタリアで非常に好まれているということで有名だが、それはこういうシンクロニシティがあるからではないかと思ってしまうほど。

TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)

TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)

 
白河夜船 (新潮文庫)

白河夜船 (新潮文庫)

 

 皆がバカンスに出かけてしまい、がらんとした町でもう会えない人のはずと出会い、語り、見送る。「このような話はポルトガル語でしか書き得なかった」とタブッキが言う通り、彼の母語イタリア語ではなくポルトガル語で書かれているのだが、リスボンの太陽の日差しや町並みが感じられるような一冊である。

 そして、どこまでも青い空や海を想像していると、やっぱり「二十世紀最高の詩人」とタブッキに称されているフェルナンド・ペソアの詩が読みたくなってこちらもまた手に取る。 

ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選 (ポルトガル文学叢書 (2))

ポルトガルの海―フェルナンド・ペソア詩選 (ポルトガル文学叢書 (2))

 

 収録されているのはフェルナンド・ペソア、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスそれぞれの名義で執筆された詩。各々の詩人の身体的特徴や学歴、星座までもペソアは考えていたというが、特色がそれぞれかなり違うので、読んでいると「そういう設定を作ってこそ自由に書けた詩なのだろうなあ」と感じる。

 訳者あとがきにもあるように、ペソアの詩は本当に語彙が少ない。70-80%はポルトガル語の基礎語彙で書かれているそうである。その「やさしいことば」だからこそ、民衆のための詩になりえた(支持された)気がする。

わたしの詩は風が舞いあがるように自然な詩となる…… 

 どこまでも自然で、どこまでも透明で、いつまで経っても新しいままだ。何度読んでもみずみずしい。100年前に書かれたものとは到底思えない。これもまた、夏にぴったり。 

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