トーキョーブックガール

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『プラテーロとわたし』 フアン・ラモン・ヒメネス

[Platero y Yo]

 今年はあまり新しい本は買わず持っている本を読み返すことにしている。 最近読み返したのは、こちらの1冊。ノーベル文学賞を受賞した詩人、フアン・ラモン・ヒメネスの『プラテーロとわたし』。 

プラテーロとわたし (岩波文庫)

プラテーロとわたし (岩波文庫)

 

 子供の頃からこの本が好きだった。その頃はどちらかというと、きれいな田舎の風景で溢れた絵本のような読み物として、この一冊を楽しんでいたと思う。のどかな空気、花が咲き誇る丘、長い睫毛がかわいいロバのプラテーロ。「ねえ、プラテーロ」と優しくロバに話しかける詩人。2人はまるで2人で1つみたいに、どこへ行くのも一緒である。 

手綱をはなしてやる。すると草原へゆき、ばら色、空いろ、こがね色の小さな花々に、鼻づらをかすかにふれさせ、生暖かな息をそっと吹きかける…… わたしがやさしく、「プラテーロ?」と呼ぶと、うれしそうに駆けてくるー笑いさざめくような軽い足どりで、妙なる鈴の音をひびかせながら。 

 そして一緒に色々なものを見聞きする。そこには喜びも悲しみもあり、人生の中でぽっかりと空いた空白期間のように静かな空気が流れている。そういう印象を子供の頃の私は持っていた。

 

 大人になってから読み返すと、まず目にとまるのがその副題。

プラテーロとわたし

アンダルシアのエレジー 1907〜1916年

 Elegía(エレジー、悲歌/哀歌) Andaluza なのだ、これは。もう戻らない時を慈しみ、懐かしみ、悲しみ歌う散文詩なのである。

 

 

フアン・ラモン・ヒメネスとは

 フアン・ラモン・ヒメネスはスペインのモゲールで生まれ育った詩人である(1881年〜1958年)。

 セビリア大学に進学し法律を学ぶが、その頃から詩に魅せられ、文学を追求するためマドリードに出て行く。マドリードでは、ルベン・ダリオなどのモデルニスモ*1を代表する詩人と交流する。しかし、良き理解者だった父親が亡くなると強いショックを受け精神に混乱をきたし、フランスの療養施設に入院することとなる。

 1905年、24歳になった時には地元であるモゲールに戻り、療養を続けた。マドリードを離れても他の詩人たちとの交流は続いていたし、ヒメネス自身も詩を作り続けていた。『プラテーロとわたし』は、モゲールでの療養中である1907年からマドリードへ戻った1916年にわたって書かれた散文詩集である。

 この9年間は、ヒメネスの人生においても重要な9年間であったと言えるだろう。順風満帆に思えていた人生が破綻し、故郷に帰る。それだけではなく、1913年にはセノビア・カンプルビーという女性と出会い恋に落ちている。1916年には彼女と結婚する。彼女との出会いはヒメネスの詩人としての側面にも良い影響を与えた。詩風は彼女と出会ってから一変し、ヒメネスは韻律のない自由な形態の詩・純粋詩という詩の形態を確立するに至ったのである。

 

モゲールに戻って

 ヒメネスの故郷、モゲールはアンダルシアの小さな町である。

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 太陽が燦々と輝き、静かで、全てがまどろんでいるような場所。父親が亡くなり家運も傾き、失望して故郷に戻ってきたヒメネスだが、久しぶりに見る穏やかな風景は彼をなぐさめてくれたことだろう。『プラテーロとわたし』は特に鮮やかなが印象的な詩集だ。これはモゲールに帰郷したからこそ書くことができたのだとしか思えない。

真昼どき、わたしがプラテーロを見にゆくと、十二時の太陽の透明な光線が、ふんわりしたかれの背中の銀いろのなかに、金いろの大きなほくろを燃えたたせている。プラテーロの腹の下、暗い床のあたりは、ほのかに緑いろで、その緑がすべてのものをエメラルドに染めてしまう。

 都会に出て忘れていた田舎の人の美しさに、ヒメネスははっとしただろう。「三人のおばあさん」など、土地の人を賛美する文章も多く見られる。

肌は黒ずんで汗みどろ、真昼の太陽をあびてほこりにまみれてはいるが、からだがひきしまってしんの強い美しさが、まだ彼女たちに残っているよーみずみずしさは失われても、いつまでも残りつづける思い出のようだね……

 モゲールという町が徐々に彼の心の棘を溶かしていくように感じられる。

 

アンダルシア賛歌: さまざまなモチーフ

 この作品は、スペイン、ひいてはアンダルシア、中でも特にモゲールに対する賛歌である。その美しさが手を替え品を替え語られてゆく。特に印象的なのは、随所で使用されるスペインらしいモチーフ。

 例えば、ガリシアを飛び回る蝶々。蝶はスペイン語では"mariposa"だが、"mariposear"と動詞にもなるほど親しまれているシンボル。ちなみに動詞の意味は、「浮気がち、移り気、しつこくつきまとう」などひらひらと飛び回る蝶らしい言葉。

 そして、アマポーラ(ひなげしの花)。スペイン全土にわたり、真っ赤な紙のような薄い花びらのこの花は咲き乱れているイメージだが、ヒメネスの詩の中にも

転々と真っ赤なしずくをしたたらせたアマポーラ

という形で何度も登場する。

 また、太陽に照らされたひとかたまりの小麦のパン。モゲールの町はまるで暖かなパンのよう、とヒメネスは歌う。

 アンダルシアらしいものでは、セビリャーナス(セビーリャ民謡)など。

*セビリャーナス(Sevillanas)はこんな感じ。フラメンコでは一番最初に習う、基礎のような踊り。


Sevillanas: Mirala cara a cara

 

「驢馬」の意味とは?

 最後に、驢馬のプラテーロ自身もモチーフだと考えることもできるだろう。が、ヒメネスはこう語る。

もちろん、ねえ、プラテーロ、きみはいっぱんに言われるような意味での驢馬などではないし、スペイン学士院(アカデミア)の辞書の定義にあてはまるような驢馬でもない。きみはわたしが知っているような、そしてわたしが理解しているような意味での驢馬なのだよ。

 いっぱんに言われるような意味での驢馬=モチーフとしての驢馬、と受け取れる。西洋での驢馬は、愚鈍・馬鹿・愚か者の象徴として使われることが多く、スペインでも驢馬という単語(burro)は人に対する悪口になり得る。頑固で、動きたくない時にはテコでも動かないというイメージもある。実際、『プラテーロとわたし』にも、年老いた驢馬が寒い夜に家に入ろうとしないという描写もある。

 でもプラテーロはそういう意味を持たない。そして、辞書の定義に当てはまるような驢馬=実際の動物でもない。それはどういう意味なのだろうか? 詩人(ヒメネス)がプラテーロを愛しているから、プラテーロは唯一無二の存在となり、動物の驢馬ではなく「プラテーロ」という魂として詩人に愛されているということだろうか。

 もちろん、プラテーロこそが詩人の第二のアイデンティティであり、自身の心の対話を文字化したものという見方もあるだろう。読んだ人の数だけの解釈があるのだと思う。

 

モゲールを去る詩人

 モゲールには療養のために来ている詩人(ヒメネス)。 『プラテーロとわたし』では後半に進むにつれて、首都マドリードへ帰ろうか?という自身への問いかけがぽつぽつと見られるようになる。

引き返す……どこへ?何から?何のために?

 モデルニスモの詩人らがマドリードで新しい文学を追求し続けているのに、自分はモゲールという田舎で精神を病んでいる。そのことに対する焦りや、もう元気になった、マドリードに帰るべきだ、という自分を鼓舞するような言葉が度々見受けられるようになる。 

今ここではーかつてわたしが楽の音と爽やかさと香しさに満ちた孤独の幻影をもとめて、あんなにしばしばさわがしい生活からのがれてきたこの場所でーわたしは今気分がわるく、寒気がする。ちょうどあのころ、クラブやドラッグストアや劇場からぬけだしたように、わたしは今ここを立ち去りたいのだよ、プラテーロ。

 療養期間を経て、再び飛び立つ時が来たのだと感じられる。

 

大好きな理由

 私がこの本のことを大好きな理由、それはプラテーロに語りかける詩人のやさしい言葉が心にしみるから。 言葉の端々からプラテーロへの究極のやさしさを感じるから。

安心して生きていなさい、プラテーロよ、わたしはきみを、きみが大好きな松かさ(ピーニャ)農園の、あの大きなまんまるい松の木の根もとに埋めてあげるからね。きみは楽しくおだやかな生活のそばで眠ることになるのだよ。きみのそばで、男の子たちは遊びまわり、女の子たちは低いちいさな腰掛けにすわってお裁縫をするだろう。孤独がわたしにもたらす詩を、きみは耳にするだろう。

 犬や猫に同じように語りかける本は多いが、それ以外の動物をモチーフとして使う作品は少ないのではないだろうか。『プラテーロとわたし』みたいな本、他にもないかなと思いを巡らせていると1つだけ思い当たった。室生犀星の『蜜のあわれ』である。老人とコケティッシュな金魚(女の子の姿をした)の物語。こちらも独特の味わいがあって大好き。

蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)

蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ (講談社文芸文庫)

 

 みなさま、今日もhappy reading!

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*1:モダニズム、現代主義。