トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『遊戯の終わり』 フリオ・コルタサル

[Final del Juego]

 コルタサルの最初の短編集『遊戯の終わり』を再読した。 

遊戯の終わり (岩波文庫)

遊戯の終わり (岩波文庫)

 

 スペイン語版も持っているので、こちらも合わせて。コルタサルならではの文体の簡潔さとリズムは非常に味わい深い。 

Final del juego

Final del juego

 

 1956年に出版されたもので、収録されている短編は

1...「続いている公園」、「誰も悪くはない」、「河」、「殺虫剤」、「いまいましいドア」、「バッカスの巫女たち」

2...「キクラデス諸島の偶像」、「黄色い花」、「夕食会」、「楽団」、「旧友」、「動機」、「牝牛」

3...「水底譚」、「昼食のあと」、「山椒魚」、「夜、あおむけにされて」、「遊戯の終わり」

 

 『石蹴り遊び』の後に出版された円熟期の短編集『すべての火は火』と比較すると少し青いというか、後の作品ほどのパンチはないなと感じるものもあるのだが、コルタサルらしさは健在で、どこから読んでも彼の作品だと一発で分かる。最初から最後までこの作家の特色というものが失われずにあったのだと実感する。

 

「誰も悪くはない」 No se culpe a nadie

 どうしても、ブルーのセーターを着ることができない。首と袖を間違えたのだろうと思い何度も着なおすがうまくいかない。妻と待ち合わせしている時間はとうに過ぎ、今すぐにでも出発したいのに……。だんだん焦っていらいらしてくる。誰でも経験するような日常のできごとを不条理ホラーに仕立て上げる腕はさすが。

 

「殺虫剤」 Los venenos

 まだ幼い男の子が体験する嫉妬や失恋。コルタサルは主人公の男の子自身の気持ちを追いかけることはないものの、殺虫剤や孔雀の羽根という風変わりな小道具を使ってはっきりとその気持ちの流れを描いている。傑作。

Fui hasta la máquina aprovechando que tío Carlos hablaba de nuevo con las de Negri, abrí la lata del veneno y eché dos, tres cucharadas llenas en la máquina y la cerré; así el humo invadía bien los hormigueros y mataba todas las hormigas, no dejaba ni una hormiga viva en el jardín de casa.

 

カルロスおじさんがネグリ家の娘たちと話している隙に、ぼくは機械のそばに近づいた。殺虫剤の缶の蓋をあけると、スプーンに二、三杯機械に投げこみ口を閉めた。これで、煙は巣穴の奥まで行きわたり、蟻を一匹残らず退治するはずだ。庭の蟻を一匹残らず殺してしまうはずだ。

 

「いまいましいドア」 La puerta condenada

 安く陰気なホテルに宿泊した主人公が、隣の部屋へとつながるドア越しに赤ん坊の泣き声を聞きつける。一人で泊まっていると言った隣の部屋の女は、こっそり赤ん坊を隠して連れてきていたんだな。その泣き声は闇をつんざくようで、夜中に目が覚めてしまい、隣へつながる無用のドアさえなければこんな目に合わずに済んだのにと悔しい思いをするが……。最後のひねりが効いている。

 

「バッカスの巫女たち」 Las Ménades

 とある劇場で、クラシック音楽が次から次へと演奏される。その中で生まれ、大きくなっていく集団ヒステリーを、傍観者として見守る主人公の視点から描く。

 

「昼食のあと」 Después del almuerzo

Después del almuerzo yo hubiera querido quedarme en mi cuarto leyendo, pero papá y mamá vinieron casi en seguida a decirme que esa tarde tenía que llevarlo de paseo.

 

お昼が済んだので、本を読もうと部屋に戻ると、すぐに父さんと母さんがやってきて、昼からあの子を散歩に連れて行きなさいと言った。

 コルタサルは悪い夢を見ると、そのことばかり考えるようになってしまうので、悪魔祓いの儀式としてそれを小説に昇華させるのだとよく語っていたそうだが、この作品など特にその傾向が感じられる。

 不気味な「あの子」の世話を両親から頼まれる「ぼく」。「あの子」に嫌気がさしていて、公園に置いてきてしまおうとするのだが……。

 最後まで正体のわからない、しゃべることのない「あの子」。「やっとの思いでつかまえて」外に連れ出さないといけない「あの子」。人間なのか? 動物なのか? それとも生命体ではないのか? もろもろの描写からはなんとなく人間、かな……と私は個人的に思うものの、その実体のなさは、不条理な悪夢に出てくる恐怖の対象を思い起こさせる。

 

「山椒魚」 Axolotl

 日本人が想像する山椒魚って、井伏鱒二の小説にも登場するこれですよね(Wikipedia「山椒魚 小説」より)。日本や中国、台湾に生息するという土色の両生類。

 でもアルゼンチンのコルタサルの小説に登場する"axolotl(アホロートル)"は、これなのだ(Scientific Americanより)。メキシコサンショウウオ、いわゆるウーパールーパー。笑っているようでかわいい……。

Biology's Beloved Amphibian--the Axolotl--Is Racing toward Extinction

 これだけでイメージは結構変わってくるなあと思う。でも、小説の雰囲気からして「ウーパールーパー」というタイトルはどうかと思うし、「アホロートル」はちょっと意味がわからないし、やっぱり「山椒魚」しかないのか。

 ただ日本の山椒魚を思い浮かべて読んでいると「きらびやかな孔雀の羽」、「アステカ人を思わせるその小さな桃色の顔」、「金の目」、「透き通った桃色の体」といった描写に「???」となるので、写真はご参考までに。

 山椒魚見たさに水族館に通っていた主人公は、いつの間にか意識だけが山椒魚に乗り移ってしまう。体は人間のまま、水族館を訪れたり訪れなかったりするのだが、主人公は別段何の疑問も持たずに自分の体(とその中の別の意識)が山椒魚について本を書いてくれるのを待ちわびている。

 コルタサルが好きだというカフカに似た部分があるが、その軽やかさや自由さはまさにコルタサルらしく、誰にも真似できない感じ。

 

「夜、あおむけにされて」 La noche boca arriba

 事故に遭い入院した男が、夜な夜なモテカ族としてもう一つの生を生きる。アステカ族と戦い、密林を走り抜け、儀式に参加する。

 「すべての火は火」や「もう一つの空」のような、二つの異なる世界を行き来する鉄板コルタサル印の物語。

 

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