トーキョーブックガール

海外文学や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『夜のみだらな鳥』 ホセ・ドノソ

[El Obsceno Pájaro de la Noche]

月夜になると、恐ろしい首が小麦色の長いながい髭をなびかせながら空を飛ぶ。その顔は主人の娘の美しい顔にそっくりで……不吉な鳥チョンチョンの身の毛もよだつトゥエ、トゥエ、トゥエという声をまねて歌うのだという。魔法だ。呪術に間違いない。

大学のラテンアメリカ文学の教授は、チリ出身の亡命者だった。政治学やフランス語と格闘し疲れ果てているなか、馴染み深いスペイン語で大好きな文学の授業をうけられる時間は至福で、毎週楽しみにしていたことをよく思い出す。

もちろんイスパノアメリカの文学を幅広く学ぶクラスだったのだけれど、チリの作家を取り上げるときには教授の瞳がひときわ輝いた。

心を込めてガブリエル・ミストラルやパブロ・ネルーダの作品を読み上げ、一つの詩について何日もかけて討論した。

イサベル・アジェンデの『精霊たちの家』について語るときは、同じ時期に国を離れた自身の体験は一言も口にしなかった代わりに、その目に涙を浮かべていた。

だがなぜか、ドノソの『夜のみだらな鳥』に関してはどういう話をしたのかあまり覚えていない。作品自体にものすごく衝撃を受けたからか、同じ頃に年上の日本人の女友達に貸してもらった『ドグラ・マグラ』も読んでいて、頭の中がチャカポコ状態だったからなのか……もったいない。学べることのありがたさというのは、社会人になってからでないと分からない部分もありますよね。

今年の2月に水声社から新たに出版されていたので、日本語訳を購入してこの秋じっくりと読んだ。とにかくその日本語の美しさに驚く。やっぱり、さすがの鼓直さん! 好き! 素晴らしい! どうでもいいが、「百貫デブ」という言葉の選択もまたものすごく心に残る……。 

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*水声社の本なので、Amazonのリンクは貼りません(Amazonでの販売を行っていないため)。お買い求めの際は(大きめの)書店まで。3500円+税です。「フィクションのエル・ドラード」シリーズ。

 

仮面舞踏会なのか、サーカスなのか

この物語はアスコイティア家という呪われた一族をめぐる物語だ。

最初の語り手はムディート(Mudito, 小さな啞という意)。修道院に暮らす小男で、かつてはウンベルト・ペニャローサ(Humberto Peñaloza)という名を持ち、アスコイティア家のドン・ヘロニモ(Don Jerónimo Azcoitía)のために働いていたことが徐々に明かされる。ドン・ヘロニモは遠縁の娘イネス・サンティリャーナ(Inés Santillana)と結婚するものの、彼が娼婦と遊びまわり梅毒をもらいうけたからか、はたまたハプスブルグ家のように濃すぎる血のためか、畸形児が生まれる。ウンベルトは《ボーイ》と呼ばれるこの子供を世話することになるのだが、自身も体の80%を失いムディートと名乗るようになる。

世間から隔離され、

《ボーイ》が知ってはならぬことばのなかでも、とくに大事なのが、始めや終わりを名指すすべてのことばだった。理由、時、内、外、過去、未来、開始、結末、体系、帰納に類することばはいっさい、ご法度……[略]……《ボーイ》が生きているのは、呪縛された現在である。

《ボーイ》が自分の外見を気に病まないように、彼を取り囲むのは同じような不具者ばかり。閉じられた世界はまるでサーカスのよう。彼らは嬌声を上げ、仮想舞踏会を開く。

中国のパゴダ、ヴェルサイユ、ネロの時代……といったテーマで……[略]……畸形の全員が乞食や廃人、泥棒や尼僧、歯欠けの老婆や魔女の仮装を凝らして

集まる。この世の終わりのような奇天烈な光景が次から次へと繰り広げられる。

時代は変わり、その後は静かな修道院に暮らすようになるムディートだって、仮装の下に隠れた人々を見続けている。

その仮装を剥ぎとってみるといい。顔もなければ表情もない、おれと同じ人間が残るだけだ。

 

不妊症という悩みから生まれた『夜のみだらな鳥』

今回初めて知ったこととして、不妊に思い悩む妻の苦しみを見たドノソがインスピレーションを受け書き上げた小説だという事実がある(鼓さんによるあとがきより)。子供ができないことに悩んだ挙句、ある晩酔いつぶれて裸で吐きはじめた妻を見たドノソは「震え上がり」(看病してあげなよ……と思うが。ドノソは元来醜いものへの恐怖を抱えていたらしい)、物語の冒頭を思いついたのだとか。

初めて読んだときは、燃え盛る野心に自分まで焼き尽くされてしまったウンベルト(ムディート)と、完璧なのに子供を作る能力だけがないドン・ヘロニモという男性が一つに溶け合っていく様に注目していたのだけれど、今回は自分の生きる意味を見いだせないイネスの物語として読んでみた。

一見美男美女のドン・ヘロニモとイネスだが、《ボーイ》が生まれるまではなかなか子宝に恵まれないという悩みを抱え、《ボーイ》が誕生したらしたで、かの存在は完璧に見える夫婦の汚点になる。 落胆したイネスはイネス・デ・アスコイティアという自分と同姓同名の先祖を福者として教会に認めてもらうという作業にやっきになる。まるで、そうすることが自己肯定につながるかのように。

彼女の悩みは「黄色い牝犬」=古い物語にも登場する、一族の女性を助けずっと寄り添う魔女という、重要なモチーフにもつながってくる。未婚の身で子供を宿してしまったからという理由で父親によって塔に幽閉された娘が、「魔女に惑わされたのだ」と言いふらされたという忌まわしい過去の話。もはや愛のない結婚や修道院に閉じ込められ、「女である」ことをやめるのを許されないイネスの近くで、ゲーム盤で、黄色い犬は自由に走り続ける。

たしかに法律的には、財産は男たちのものでしょう。でも、この修道院を守ってきたのは、わたしたち女です。この修道院がアスコイティア家の手を離れなかったのは、誰も記憶していませんが、何代もの信心深い女たちのおかげ、そう思います。めいめい頭を働かせて、弱さを逆用して、歴史の本などにはのっていない秘密の策略を使って、夫がこの修道院を見捨てるのをじゃまして来たんです。

代々続くマチスモ(machismo)の陰でなきものとされてきた女たちの苦しみの系譜も描かれているのだ。 

どこまでも女たちについていくような黄色い犬について読んでいると、室町時代から伝わる伝説・玉藻前(九尾の狐)のことも思い出す。

 

報われない恋

また、これはウンベルトの永遠に続くイネスへの恋というか執着の物語でもある。

姿を変え乙女に近づき、何が何でも想いを遂げるギリシャ神話のゼウスのように、ウンベルトも形を変え、イネスへの道を探し求め続ける。

もしくは、その恋・執着心の矛先はドン・ヘロニモその人なのかもしれない。

最終的には、《ボーイ》に外の世界があることを教えないという目的で始まったサーカスのような閉じられた生活も、ウンベルトのドン・ヘロニモへの復讐だったのではないかと、周りの人間も読者も考えるようになる。

そしてウンベルトは《ボーイ》にも姿を変えて、ドン・ヘロニモが彼のために作り上げた世界をぶち壊そうとするようになる。

 

秋にぴったり

プリズムのように、読めば読むほど新しい面が見えてくる小説だ。読み始めると他の作品は全く手につかなくなってしまうし、嫌という程変な悪夢を見るのだが、秋の夜長にはぴったり。

鳥のようにぺちゃくちゃ、ピチュピチュと最初から最後までおしゃべりを続ける老婆たちがいつまでも心に残る。