トーキョーブックガール

海外文学・世界文学や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『ラ・カテドラルでの対話』マリオ・バルガス=リョサ: 実験的な長編小説

[Conversación en La Catedral]

「ラテンアメリカの文学」シリーズで1984年に出版されていたリョサの『ラ・カテドラルでの対話』。2018年にめでたく岩波文庫から新訳が登場した。ということで、年末年始はこの一冊と濃密な時間を過ごすことができて満足している。 

父から借りてちらっと読んだことはあったものの、最初から最後まで読んだのは初めて。

執筆されたのは1969年で舞台となっているのは1940年代〜60年代、オドリア独裁政権下とその後のペルーだ。

ラ・カテドラルでの対話(上) (岩波文庫)

ラ・カテドラルでの対話(上) (岩波文庫)

 
ラ・カテドラルでの対話(下) (岩波文庫)

ラ・カテドラルでの対話(下) (岩波文庫)

 

タイトル通り、〈ラ・カテドラル〉という名のバルでの対話が綴られている。

愛犬が保健所に収容されてしまい、迎えに行った新聞記者のサンティアーゴ。そこで働いていたのは、かつてサンティアーゴの父親の運転手をしていたアンブローシオだ。久しぶりに再会した二人は〈ラ・カテドラル〉へ移動し、会話と酒を交わす。

「坊ちゃん」、「アンブローシオ」。お互いへの呼びかけはあの頃と変わらないものの、二人の人生は大きく変化している。

首都リマで、良家のおぼっちゃまとして育ったサンティアーゴ。父親のドン・フェルミン・サバラは有力な実業家で、大統領やオドリア政権の議員たちとも密接な繋がりがあった。しかし、兄のチスパスや妹のテテとは違い、サンティアーゴは庶民的な大学への入学を希望する。いわゆるチャロやチャラ*1が通う大学だ。サンティアーゴはそこでアプラ党や共産主義者の友人を作り、とある会合時に逮捕されてしまう。その後は父親や実家の影響を受けずに、自活したいと家を出て新聞社で働くようになる。再び家族と連絡を取るようになるのはオドリア政権が倒れてからだった。

一方、ドン・フェルミンに長年仕えていたアンブローシオはサンボ*2だ。元々は政治家のドン・カヨのもとで働いていたのだが、ドン・フェルミンの運転手となり、彼のためにとある罪を犯し、リマから遠く離れた地に逃げ去る。

 

基本的な筋はシンプルで、アンブローシオがドン・フェルミンの元を去るきっかけになった出来事とはなんだったのかというサンティアーゴの問いかけに対して、アンブローシオが喋り始め、それをきっかけに様々な思い出が二人の脳裏に蘇るというもの。

ただし、その語りの「技法」は複雑かつ多種多様で、まるで万華鏡のごとく二人を取り巻く人々が現れては消え、ペルーという多文化・多民族国家そのもののように「ごたまぜ」の感がある。

最初の章ではサンティアーゴとアンブローシオが会話をしているはずが、唐突に過去の別の人物の会話に変わっていく。読みにくいはずだが、会話の其処此処で名前を呼びかけるスペイン語圏ならではで、話を見失うことはない。この言語圏にこそ相応しい技法だと思う。

「プーノ街ってのは、旧ヘロニモ神父通りですよね?」とアンブローシオは言う。「あそこのあの家では今でも、あたしみたいな落ちぶれた黒人にも金を配ってくれるんですか?」

「あそこで僕らは試験を受けたんだよ、サン・マルコスに入ったあの年」とサンティアーゴは言う。「僕はそれまでも、ミラフローレスの女の子たちに恋心を抱いていたりしたけど、ヘロニモ神父通りで初めて本当に恋に落ちたんだ」

「小説じゃなくて、歴史の本みたい」とアイーダは言った。

「ほう、そりゃいいですね」とアンブローシオは言う。「彼女のほうも坊ちゃんのことを好きになったんですか?」

「自伝なんだけど、小説みたいに読めるんだよ」とサンティアーゴは言った。「じきに《長い刃物の夜》っていう章で、ドイツの革命の話になる。すごいんだ、じきにわかるよ」

2章では語り手がアマーリアや若かりし頃のアンブローシオに変わり、移りゆく視点が楽しめる。

3章はアブローシオの世界にサンティアーゴが新聞記者として足を踏み入れる形で始まるというミステリー仕立てでもあり、4章はケタの人生を通じてサンティアーゴやアンブローシオの苦悩が描かれる。 

また、訳者の腕前が光る作品でもあった。訳者の且敬介さんがあとがきでも書かれている通り、本作品は自由間接話法が多用されている。且さんが引用している部分をお借りすると

 どうしたソバカス、おまえの義理の兄貴が、テテから手を引かないと痛い目に合わせると言ってきたのだろうか? と上院議員は笑顔になり、ポパイは考えた、今日はなんてむやみに上機嫌なんだろう。そんなんじゃないよ、彼とサンティアーゴは仲良しなだけだった。

日本語はスペイン語(ヨーロッパ言語)に比べると話法のルールが曖昧なこともあり、これを直接話法を使うことで「より自然な日本語」に戻して訳することが従来の常であったが、今回はこの手法やそこから生じる視点の移動を消去せず翻訳しているということで、それによって日本語圏の読者も「違和感」を感じて、リョサの技量を推し量ることができる仕掛けになっている。

この辺りは、なるほど〜! と膝を打った。フローベールの『ボヴァリー夫人』、プルースト、ウルフ、フォークナーなどが作り上げてきた自由間接話法、日本語訳だと確かにあまり意識せず読めてしまうからだ。

 

その手法は非常に実験的で、『緑の家』や『密林の語り部』に比べると荒削りだと感じられなくもない。が、リョサの「語ること」「書くこと」への情熱が溢れんばかりで、個人的にはお気に入りの作品となった。

1200ページ長の大作ではあるものの、一度読むだけでは勿体無い。最初から読み直すと、ピントが合ったかのように感じられる箇所がいくつもある。

 

さて、久しぶりに再会したサンティアーゴとアンブローシオはどちらも秘密や苦悩を抱えている。父との関係、ペルーという社会的・民族的多様性に溢れた国への絶望、同性愛、アイデンティティ。

特にアイデンティティはこの二人を苦しめ続ける。良家のおぼっちゃまだったサンティアーゴはその身分を捨て一介の記者として生きることになり、そこに後悔はないものの、黒人の血が入った女性と結婚したことに母親のソイラ夫人は動揺と軽蔑を隠そうとしないし、久しぶりに兄や妹と会うと別の人種のように感じる。

おまえはもう彼らのようではなかったんだサバリート、おまえはもうチョロだったんだ。 

一方のアンブローシオはサンボということで好奇の目に晒されることもある。ドン・カヨのように政治家連中から見ると「チョロ」だが召使いらから見ると「白人のお坊ちゃま」という人間もいて、複雑に絡み合って混乱を極めたペルーの多様性が見て取れる。

 

ドン・カヨの「奥様」でもともと歌手として働いていたオルテンシア、彼女の恋人で娼婦のセニョリータ・ケタ、オルテンシアのメイドだがアンブローシオと恋愛関係に陥り子供を授かるアマーリアなど、女性陣の人生の物語からも目が離せない。オルテンシアやケタのような生い立ちのニーニャ・マラ(Niña Mala)の物語『悪い娘の悪戯』を再読したくなった。 

悪い娘の悪戯

悪い娘の悪戯

  • 作者: マリオ・バルガス=リョサ,八重樫克彦,八重樫由貴子
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2011/12/23
  • メディア: 単行本
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夜のみだらな鳥』も『ラ・カテドラルでの対話』も今年復刊となり、若手作家の作品もどんどん訳されているし、ラテンアメリカ文学は盛り上がっているなと感じる。

次は同じく「ラテンアメリカの文学」シリーズで出版されていたアストゥリアス著『大統領閣下』の新訳を出してほしい。これは所持しているものの、「ラテンアメリカの文学」は全て二段組みなのが若干読みにくくて積んだままにしている。

大統領閣下 (ラテンアメリカの文学 (2))

大統領閣下 (ラテンアメリカの文学 (2))

 

 それではみなさま、今日もhappy reading!

*1:インディオ系の混血を指す。

*2:黒人との混血。