トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『美しさと哀しみと』 川端康成

 このブログは「海外文学&洋書レビュー」と銘打って始めたので、日本文学のことは書くつもりはなかったのだけれど、本作は「ガーディアンの1000冊」にも選ばれた1冊なので特別に。

1000 novels everyone must read: the definitive list | Books | The Guardian

 ちなみに「ガーディアンの1000冊」はイギリス人によるイギリス人のためのリストということもあり、ほとんどがイギリス文学で、世界文学はさほど入っていない。日本文学は7冊のみ。安部公房の『他人の顔』、大江健三郎の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』、遠藤周作の『沈黙』、谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』、村上春樹の『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥クロニクル』、そして『美しさと哀しみと』である。読んでいないのは本作のみだったので、今回読めてよかった。

美しさと哀しみと (中公文庫)

美しさと哀しみと (中公文庫)

 

 そもそも川端康成は『雪国』や『伊豆の踊子』、ガルシア・マルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』のインスピレーション源となった『眠れる美女』くらいしか読んだことがない。どれも子供の頃に読んだからか、いまいちピンとこなかった。

 『美しさと哀しみと』は、日本ではそれほど高い評価を得ているとは思えない。むしろ川端作品の中では二流とみなされているのではないだろうか。が、海外では不思議と人気のある作品である。

 英語圏だけではなく、フランスでは映画が作られ、スペインでも愛読者に会ったことが多々ある(その他の地域でどうなのかはちょっと分からない、聞いたことがなくて)。とすると、これは「英語版の翻訳が巧みだからという理由だけで、ガーディアンに選ばれた訳ではないのだろうな」と常々感じていた。

 読んでみての感想としては、欧米文化が好む「ファム・ファタール」もので破滅への道のりが分かりやすい、ということ。欧米古典文学が好きな読者は、シンパシーを感じやすいのではないだろうか。

 そして、大人になって川端康成を読んでみてグッときたのは日本語の美しさ! 文豪の作品に対して今更何を言ってるんだと言われそうだが、京都の情景も、赤ちゃんを亡くした音子の気持ちも、音子を忘れられない大木の言葉も、心に染み入るような文体で書きつけられていた。それがあまりに心地よくて、喉が渇いた時に水をごくごく飲むような勢いで読み終えてしまった。日本の古典を読む機会が最近なかったので、余計にその日本語の美しさにじーんときたのだろう。美しい日本語で書かれた書物をもっと読まなければ、と実感した次第です。

 確かに現代人が読むと、突っ込みたくなるような設定であることは確か。大木は自己中のエゴイストでどうしようもないロリコン男だし、けい子を口説こうとする場面は気持ち悪すぎて笑えるし、こんな男に惚れたままで何十年も過ごしたなんて絶対嘘でしょ音子さんと言いたくなる。「男のしようのなさ」を描きたくての設定だという人もいるけれど、どうだろう。時代の違いもあるし、単純にこれが川端康成の男女観だったのかもしれない。

 本作に登場する「ファム・ファタール」は二人いて、一人は大木の記憶の中の『十六七の少女』音子である。三十を過ぎた大木に家庭があるのを知りながら彼を愛し、子供のように甘やかし、夢中にさせる。全てを失うと精神に錯乱をきたしてしまう。ただし音子は破滅的になりきれないところがあるというか、その後の人生は京都で画家として名を上げ、心の平静を保ち過ごすことになる。

 もう一人は音子の弟子けい子で、けい子の大木に対する復讐劇がこの小説の主なプロットとなっている。同性愛の関係にある音子を傷つけ、何十年経ってからも突然会いに来て彼女の心を乱すような大木のことが許せない。先生の人生をめちゃくちゃにしたように、お前とお前の家族の人生を破滅させてやる……。まだ若き女性が、かわい子ぶったり、おかしそうにくすくす笑ったりしながら目的を遂行するさまは凄みがある。

 この同性愛というテーマは、川端自身の経験に基づいて書かれたものだという。だが、音子とけい子の関係性を読んでいると、やはりあの作家の作品にインスピレーションを受けて、というかオマージュとして、書いてみたかったのかなと思わざるをえない。

 谷崎潤一郎の『卍』だ。夫のいる園子と光子の、誰にも止められない恋愛。

(まんじ) (新潮文庫)

(まんじ) (新潮文庫)

 

 個人的に面白いと感じるのは、大阪出身の川端が『美しさと哀しみと』を標準語で書き、東京出身の谷崎が『卍』を関西弁で書いたこと。

 ただし、『細雪』では完全に関西人としての視点を得ている谷崎だが、『卍』はエトランゼ(異邦人)として関西の女たちを描いている。

 外から見て、関西の女性の持つ「声」……女性たちの使う関西弁、そのリズム、言い回しや艶、温かみにある意味カルチャーショックを受け、書き上げた物語という印象がある。卑猥な話や人の度肝を抜くような打明け話すら、たいしたことなく聞こえさせる魔力がある言葉を、文豪らしく上手く調理したのではないだろうか。

 一方川端は標準語を用いることで、音子の静とけい子の動を書き分けることに成功している。

 

 川端が、映画化の際にけい子を演じた加賀まりこに夢中になり、朝食を一緒にとるためにいそいそと出歩いたというのは有名な話。確かに彼女は、けい子が本から抜け出してきたような小悪魔的美しさと奔放さ(川端のことを「あのおじいさん」呼ばわりしちゃう!)の持ち主である。

美しさと哀しみと [DVD]

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 加賀まりこのメモワール『純情ババァになりました。』も素っ頓狂で面白すぎるのでおすすめです。こんなに素敵な人、なかなかいない。とにかく自分に正直で、素直なのだ。川端康成に崇められたり、二十歳で突如仕事を辞めるとフランスに渡りトリュフォーやゴダール、サガンなどと交流したり。その頃を知らない私にとっては驚きと発見の連続。自分なりの美学に従って生きる、格好いい女性。 

純情ババァになりました。 (講談社文庫)

純情ババァになりました。 (講談社文庫)

 

 本作はフランスで映画化もされている。これも観てみたい。