トーキョーブックガール

世界文学・翻訳文学(海外文学)や洋書レビューを中心に、好きなことをゆるゆると書いているブログです。

『アンナ・カレーニナ』レフ・トルストイ: 決して終わらない物語

[Анна Каренина]

 十年以上ぶりに、『アンナ・カレーニナ』を再読した。もちろんきっかけは、宝塚・月組にて『アンカレ』再演が決定したこと。観劇については下の方で詳しく書きたいと思うけれども、まずは(あらすじははっきりと覚えていたにもかかわらず)印象が180度変わった原作の話を。

 

二度目の『アンナ・カレーニナ』

 初めて読んだ時私は十代だったのだが、その時はとにかくアンナという女に呆れ果てていた覚えがある。何故これほど不幸を求めて堕ちていくんじゃい、という思いが大きかったのと、「子供もいる人生経験豊富なはずの女性が、どうしてこうも不器用にしかヴロンスキーを愛せないのか、嫉妬に苛まれて鬱々と毎日を送っているような人とは一緒にいたくなくなるのは当然じゃないか」と感じてしまったのだ。

 その頃は「恋愛」部分にしか興味が湧かず、リョーヴィンについてどう思ったかは覚えていないほど。 

 全体的には、モームの『アンナ・カレーニナ』評に近いものがあった。

読書案内―世界文学 (岩波文庫)

読書案内―世界文学 (岩波文庫)

 

 モームの意見がどういうものかというと、 

彼(トルストイ)が語ろうとする話は、道徳関係の論文を思わせるところがあまりにも多く、わたくしには大しておもしろいとは思えない。トルストイは、アンナがウロンスキーを愛することをぜったいに不可であるとし、「罪の価は死なり」(新約聖書、ロマ書六章二三節)ということを読者に納得させようとして、意識的に彼女にたいして不当な態度に出る…(中略)…トルストイは、彼が最初から意図していた悲劇的な結果をもちきたらすために、この女主人公を、愚かで手数のかかる、道理をわきまえぬがみがみ女としてえがかねばならなかった。…(中略)…だが、愚かであることが原因で、その身にさまざまな不幸がふりかかるのを見て、心から同情するということは、わたくしにはとうていできない。

 さて、なぜ本作が最高の恋愛小説と呼ばれているのかよく分からないまま読み終わり、これは再読しなければと思いながらも、二十代は仕事、社交、恋愛で嵐のごとく過ぎ去り、そんな時間はとても取れなかったのだった。

 そして十数年の時を経て私の前に現れた『アンナ・カレーニナ』は全く違う物語のようだった。どうしてだろう。瑣末なことまで記録し、19世紀ロシアに暮らす人々が知り合いのように感じられるほどのトルストイの筆致に感動したからか、仕事や恋愛や結婚を経て私が成長したからか、時代背景について詳しく知ったからか。

(今回読んだのは光文社古典新訳文庫)

アンナ・カレーニナ 1 (光文社古典新訳文庫)

アンナ・カレーニナ 1 (光文社古典新訳文庫)

 

 この壮大な物語の感想をどう書くべきか迷っているのだけれど、19世紀ロシアにおける貴族と平民、農奴解放、離婚制度、アントレプレナーシップ、女性の生き方の模索、人間関係、恋愛と結婚、死への恐怖の全てが書き連ねてあるということにまず畏怖を覚えるし、だからこそいつまでも色褪せない小説なのだろうと感じている。

 今回読んだ感想はナボコフによる『アンナ・カレーニナ』評に全面的に賛成、というところ。 

ナボコフのロシア文学講義 下 (河出文庫)

ナボコフのロシア文学講義 下 (河出文庫)

 

 ナボコフは『ナボコフのロシア文学講義』の後半、ほとんど丸々一冊を使ってトルストイについて論じている。曰く、「トルストイはロシア最大の散文小説作家であ」り、ロシア文学作家に順位をつけるとすれば「一番、トルストイ、二番、ゴーゴリ、三番、チェーホフ、四番、ツルゲーネフ」(ドストエフスキーには反論されそうとも記している)。 

 で、何が素晴らしいのかというと、トルストイは「私たちの時の概念と非常に快適かつ正確に一致する性格描写の方法」を発見したのだと。

 いわゆるリアリズム、生き生きとした人物描写や風景の筆致だけではなく、

トルストイの散文は私たちの脈搏に合せて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる。

ということなのだ。これに代表されるのが「一方にはアンナの肉体的時間があり、もう一方にはリョーヴィンの精神的時間が」あるということで、ナボコフも指摘している通り、作中でパートナーを持つ者の時間は早く流れ去り、一人でいる者の時間はゆっくり過ぎるということ。本作を読むと、ナボコフの唱えていることがよく分かる。

 

 ちなみにナボコフは、リョーヴィンの農地改革云々の描写は局地的すぎて面白くないと切り捨ててもいるのだが、私はそうは思わなかった。むしろ若くして経営改革に乗り出し、自身も農奴の仕事を経験しながら領主として成長していくリョーヴィンの物語は現代のビジネスパーソンやアントレプレナーにとって共感できるところが多く、読み応えがあるのではないか。ということで、十代の頃には恋愛にフォーカスして読んだこの物語を、今度は仕事や結婚、女性の生き方について考えながら読むことになったのだった。こういう多面的な読み方ができるのも全体小説の醍醐味というか、トルストイの腕によるところだろう。

 

細かいところでは

 昨年読んだドストエフスキーの『白痴』と同じく、ロシアを縦断するようになった鉄道、つまりテクノロジーが「不幸をもたらす何か」として書かれているのも興味深かったし、繰り返し登場する「馬」というモチーフにも惹かれた。将来を暗示するかのようなヴロンスキーの落馬、自由を求めるアンナが気ままに乗馬するさま、などなど。

 そして、いついつまでも終わりが来ない物語というところ(何しろリョーヴィンとキティが結ばれても、タイトルとなっているアンナが死を迎えても、この話は終わらないのだから)も、この小説の登場人物をより生き生きと表現するのに一役買っていると感じた。

 

アンナ・カレーニナという女性

 そしてもっとも変わったのが、アンナ・カレーニナという女性に対する見方。前に読んだ時はただただ運命に翻弄される女性という印象があったのだが、当時のロシアの結婚・離婚制度を知り(翻訳者・望月哲男さんによる解説がありがたかった)、恋や愛を知らないまま結婚し子を成したアンナの内に秘めた情熱を知ると、とにかく自分の思うがままに人生を歩みたいと願った女性なのだなと実感する。アンナの読書に対する姿勢も然り。

アンナは読みかつ理解していたが、どうも読書というものが、つまり他人の人生の反映を追いかけることがつまらなく感じられた。自分が生きたいという気持ちが強すぎたのだ。

 なんと、もう二度と妊娠したくないというアンナが避妊について語る場面すらあるのだ。改めて読んで、これには驚いた。

 息子を思うが故の離婚する・しないの堂々巡りと、日々高まるヴロンスキーへの情熱と嫉妬。全ての歯車がすれ違い続け、アンナを蝕む。

 リョーヴィンやキティは女子教育について語り、女性がこれから進むべき自立への道について思いを馳せる。悲しいかな、世代も少し上で既に結婚・出産・不倫というカードを切ってしまったアンナは、これからやってくる未来に希望を持つことはできなくなっている。

あの時あれほどすばらしく、手の届かないように思えた数々のことが、今ではつまらないものになって、あの時持っていたものが、今では永遠に手の届かないものになってしまった。

 読み終えた後では、かの有名すぎる冒頭の文章が全く違う意味を持って立ち上がってくる気がした。 

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。

 

宝塚歌劇団・月組による『アンナ・カレーニナ』

 さて、月組による『アンナ・カレーニナ』! 輝かんばかりの美貌を誇るタカラジェンヌの中でもピカイチの美しさで知られる美弥るりかさんがヴィロンスキー、海乃美月さんがアンナ・カレーニナ、月城かなとさんがカレーニンということで、心から楽しみにしていたのだが、過度の期待をも上回る素晴らしい観劇体験になった。ライブビューイングしてくれてよかった! ブルーレイも買う!

 演技達者の三人に、若々しく荒削りな夢奈瑠音さんのリョーヴィン、まさかの研一で大抜擢され天使の歌声を披露してくれたキティ役のきよら羽龍さんも素晴らしかったな……。

 でもやっぱり、これはタイトルロールを演じた娘役・海乃さんの魂のこもった演技が要だったと思う。見方次第で最高に嫌な女にもなりうるアンナを、観客全体が同情してしまうような女性に作り上げた彼女の功績は大きい。

 そしてもちろん、誰もが恋に落ちてしまうだろうと思わせる魅力を振りまく美弥さんのヴィロンスキー。最初から最後まで発光しているのではないかと思うくらい輝いていて、スクリーン越しでも眩しかったほど。

 花の命は短い宝塚だけれど、いつまでも見ていたいと思うトリデンテです。 

kageki.hankyu.co.jp

 

「アンナ・カレーニナ」だった、あの人

 さて、十年近く『アンナ・カレーニナ』を読み返すことはなかったと書いたが、その間アンナのことを全く考えなかったというわけではない。私は現実世界で、「アンナ・カレーニナそのものだな」と感じる女性に会ったのだった。

 それは私が大学に入って少し経った頃のこと。数歳年上の男の子(院生だった)とデートするようになったのだけれど、彼のルームメイトが年上の女性と付き合っていた。その女性は私より十二歳年上で、まだ幼い息子がいて、夫とはうまくいかずに離婚したか別居しているかという状況だった。私たち四人は、金曜や土曜の夜を一緒に過ごすようになり、飲みに行ったり踊りに行ったりと楽しい時間を共有した。

 彼女はロシア系でこそなかったが、肌は抜けるように白く、豊かにウェーブした黒髪を長く伸ばしていて、いつも朗らかで美しい人だった。背は低いものの、エネルギーに溢れていて、今思えばトルストイが描写したアンナの外見そのものだった。

 土曜や日曜の朝まで飲んで、皆で酔っ払って帰り、昼過ぎまで泥のように眠る。そんな時、彼女はいつもそうっとバルコニーに出ると、両親やベビーシッターに預けている自分の息子に電話を掛ける。とても心配そうに、時には謝りながら。

 少しの物音でも起きてしまうたちの私は、薄眼を開けて夜とは全く印象の違う彼女の横顔を見つめた。夜はあんなに笑っていたのに、昼の光の下の彼女は憂いを帯びていて、罪悪感にさいなまれている。その表情を見るといつも、「アンナ・カレーニナもこんな顔をしていたのだろうな」と思ったのだった。

 時は流れ、今となって思い返すと、あの頃はニュートラルな視線で見ていた彼女を無責任だと感じる部分もあるし、三十代になってから二十代の収入が安定しない男の子と付き合っていたことをどこか幼いと思うときもある。

 常々「無知(ignorance)が偏見を生む」という言葉を頭の片隅に置いているつもりなのだけれど、逆に経験や「世間を知ること」が偏見を生むこともあるのだと実感する。

 彼女を含めその頃遊んでいた人々とはあっという間に会わなくなってしまって、今後も会うことはないと思うが、不思議なことに彼女がある夜話してくれたことが今でも忘れられない。

 カバラか何かの占いが好きだった彼女は皆の誕生日を占ってくれたのだが、私とちょうど十二歳離れていて誕生月も一緒だからか、彼女と私は同じ結果が出たのだった。それによると、私たちを表す生き物だかなんだかが「龍」で(この占いがどういう類のものだったかは今でも分からない。干支でもないし……)、彼女は私の目を見つめて言った。

「龍って、すごくラッキーなのよ。でも美しく歳を重ねることはできない。だから水をたくさん飲んで、体を綺麗に保ってね」

 その、"dragons don't age gracefully"という言葉が私の心にずっしりと刻まれたのだった。かなり年下の男の子と付き合っている彼女から言われてどこか悲哀を感じたからか、その驚異的なスタイルを見て「いやいや」と思ったからなのか。

 とにかく私は今でも水にはこだわっているし、こまめに摂取する。ことあるごとに、彼女の言葉が頭に浮かんでくる。

 あの頃の彼女の年齢になった私、全然違う国で、あの頃には想像もしなかった生活を送っている。人生とは本当に不思議なもので、色々な人とのちょっとした出会いが自分の一部になっていく。

 彼女が今どうしているかは分からないけれど、どこかで笑っていてほしいと思う。

 それでは皆様、今週もhappy reading!