トーキョーブックガール

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『失われた時を求めて ソドムとゴモラ』 マルセル・プルースト:LGBTQ文学の先駆け

[À la recherche du temps perdu]

私のサマー・リーディングといえば、ここ何年かは必ず『失われた時を求めて』だ。

でもこれが、遅々として進まない。読んだことのない巻を手に取ると、必ず「スワン家のほうへ」まで戻って最初から読んでしまうから。

それだけ面白いし、『プルーストを読む』で鈴木道彦さんが記している通り、

プルーストはこちらの成長に応じて成長し、こちらが経験を積むにしたがってますます広がりと深さを増してゆくかのようだった。そのような作品を私はほかに知らない。*1

なんですよね。私も、そのような作品をほかに知らない!

今夏は「ソドムとゴモラ」を熱中して読んだので、こちらの感想を。「ソドゴモ」も後半は避暑地のバルベックが舞台ということで、リゾート気分を味わいつつ読み進めることができた。

ちなみに色々な翻訳者さんバージョンをさまよった挙句、現在は岩波文庫の吉川一義さん訳を愛読中。

フランス語のちょっとしたジョークやら、言葉のあやの訳し方が秀逸だと思う。「ソドゴモ」だと、「明日は私にリー・ド・ヴォーを出してくれたまえ(vous me ferez du ris de veau)」とでも言うように、「そんなに気が動転なさるようでは、明日は私に三十九度の熱を出しますよ(vous me ferez 39 de fièvre)」というコタール医師のセリフだとか(こうやって抜き出すと何も面白くないけど…)、「ソドゴモ」以前にも何度も登場した"mentalité(マンタリテ)"のエピソードだとか。今は普通に使用されているこの単語、当時は造語だったらしく、その成り立ちが手に取るように感じられるのもいい。20世紀初頭のフランスにおける風俗を知るにもうってつけの小説である。

岩波文庫は文中に大量に出てくる美術・芸術作品を必ず写真で紹介してくれるのもありがたい。常々考えるのだが、『失われた時を求めて』を一番楽しんで読めるのは、画家&美術愛好家ではないだろうか。夕暮れ時の空の色を、巨匠の作品を引用しながらああでもない、こうでもないと何ページにもわたって延々と描写するプルーストだもの。

失われた時を求めて(8)――ソドムとゴモラI (岩波文庫)

失われた時を求めて(8)――ソドムとゴモラI (岩波文庫)

 
失われた時を求めて(9) ソドムとゴモラ II (岩波文庫)

失われた時を求めて(9) ソドムとゴモラ II (岩波文庫)

 

さて、「ソドムとゴモラ」というタイトルが暗示する通り、この巻では同性愛(ゲイとレズビアン)が大きなテーマとなっている。

 

シャルリュス男爵の恋愛譚

「私」の観察眼が光るエピソードは下記の4つ。

まずは、以前「私」にちょっかいを出してきて、いつも静的な「私」が暴力的に怒るというなんともレアなアクションシーンを生み出したシャルリュス男爵(ゲルマント公爵の弟)。彼が元仕立て屋ジュピアンに出会い、お互い気に入り結ばれる。

その後、ゲルマント大公のサロンにて美形の兄弟(ヴィクチュルニアンとアルニュルフ。ゲルマント公爵の愛人・シャルジ=ル=デュック公爵夫人の息子たち)に目を奪われたシャルリュス男爵が、無関心を装いながらも、自身の邸宅に遊びに来るよう誘うという話。ここまでがパリの物語。

後半では、バルベックで開かれるヴェルデュラン夫妻のサロンにやってきたシャルリュス男爵が、バイオリン奏者のモレル(父親は「私」の大叔父の従僕だった)に一目惚れし、モレルが聞いていることをちらちらと確認しながら、自身の知識や地位について別の人に語るという恋の駆け引き。そしてその後の愛の成就や、モレルへの嫉妬、別離。

このあたりは読者にとって、ヴェルデュランのサロン=ブルジョワの集まりと、「ゲルマントのほう」にて描かれた由緒正しい貴族・ゲルマント家のサロンとの違いを反芻するいい機会になる。

 

嫉妬、嫉妬、嫉妬…アルベルチーヌと「私」

そして最後に、アルベルチーヌの話。ジルベルトやゲルマント公爵夫人、ステルマリア嬢など、「私」が恋し夢見た女性たちとは違い、真の恋愛関係にあるアルベルチーヌ。ところが、彼女が女友達と密着して踊っている姿を見かけた「私」は、アルベルチーヌが同性愛者なのではないかと疑い始める。

その後なんだかんだあっても、この嫉妬から生じた疑いは晴れることなく、というよりもレズビアンであるヴァントゥイユ嬢とアルベルチーヌが親しいということが判明したこともあり、「私」は嫉妬に苦しめられる。

子供の頃、おとぎ話のように感じていたであろうスワンとオデットの恋。恋しているからこそ嫉妬に苛まれたスワンの辛い思いを、「私」は何十年も経ってから追体験することになったのだった。

「スワンの恋」以来の、恋愛について心底考えさせられる巻である。

アルベルチーヌと別れようと試みたり、この後最終的にはアルベルチーヌが「逃げ去る女」となったりするのだろうが、大人になった「私」の歪んだ愛の形はなんともいえない。

 

それぞれの愛の形 

これらが丁寧に描写され、まるで「たまたまやってきたマルハナバチに対し蘭の花がやるかもしれないような、なまめかしいポーズをとる」シャルリュス男爵のことも、「私」は彼自身以上によく理解しているのではないかと思わせられる。

もちろん、このしつこいほどに丁寧な心理描写は、自身もゲイであったというプルーストだからこそ書きえたものだろう。後半に登場する、バルベックに滞在していた私が小鉄道から降りてくるシャルリュス男爵を見て、日の光の下で男爵の老いに気がつく場面も、この観察眼あってこその凄惨さに息を飲む。

パリで氏に会うのは夜の集いのときだけで、そんなときの氏は黒の燕尾服にぴったり身をつつんで微動だにせず、誇らしげに背筋をぴんと伸ばし、相手に好感を与えんとする熱意をほとばしらせ、言葉をぽんぽんくり出すので、私は氏がどれほど老いているかには気づいていなかった。いまや氏は、明るい色の旅行用の三つ揃いを着て太って見え、よちよち歩きながら、でっぷりとした腹とほとんど名ばかりの尻を揺すっていて、夜の光のもとであればまだ若い男の生気あふれる顔色と見えたすべてが残忍な白日のもとにさらされて分解され、唇のうえには紅が、鼻のさきにはコールドクリームで塗りつけた白粉が、ごま塩頭と対象をなして黒檀色に染めあげた口髭のうえには黒の顔料が目についた。

これを読んでいると、年老いた女のしわだらけの首にかかるネックレスを、崩れかかった欄干に例えた三島由紀夫を思い出した。子供の頃読んで、ものすごく印象深かったな。『肉体の学校』だったはず。 

肉体の学校 (ちくま文庫)

肉体の学校 (ちくま文庫)

 

プルーストは本作品の出版前から「私の本は非常に淫らな内容のものになるでしょう*2」と出版社に警告していたそうで、かなり早い段階で同性愛について、微に入り細をうがつエピソードを描くつもりだったのだろうと思われる。

フランスで「ソドゴム」が出版されたのは1921年だから、フランス文学史ではおそらく最初のLGBTQ文学の1つなのでは*3

その事実を鑑みると、「どうしても書かなければ」というプルーストの作家魂が燃え盛る様が手に取るように想像できるし、20世紀初頭のフランスの様子をつぶさに教えてくれるこの小説に改めて感謝したくなる。

さて!「囚われの女」を読むのは来年の夏になるでしょうか。

ここまでくると、一気に読んでしまいたい気もする。

失われた時を求めて(10) 囚われの女I (岩波文庫)

失われた時を求めて(10) 囚われの女I (岩波文庫)

 

 

www.tokyobookgirl.com

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*1:

プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)

プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)

 

*2:『プルーストを読む』より。

*3:イギリスでは、アイルランド出身のオスカー・ワイルドが1890年に『ドリアン・グレイの肖像』を出版している。